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「長久手合戦図屏風」復元模写・芸大

天正十二年(1584)、徳川家康と羽柴秀吉との間に9ヶ月に及ぶ長い戦さのなか、ついに4月9日に家康軍と秀吉軍(森長可・池田勝入隊)の間で激しい合戦がおこなわれました。6曲からなる「長久手合戦図屏風」には、家康本隊も登場するため徳川家では江戸初期の制作以来、大切な遺宝の合戦図屏風として長く保存されていたものです。

画像:徳川美術館所蔵

日本美術の復元模写の技法で高く評価されている愛知県立芸術大学では、現在、徳川家で最も大切にされてきた屏風絵「長久手合戦図屏風」の模写がおこなわれています。今年4月に「アド街っく天国. – 長久手とジブリパーク」でも収録放送された作業場にお伺いし、法隆寺などの仏画の復元を統率してきた岡田眞治教授にお話を伺った。

作業部屋の壁には、タテ約1.5m、ヨコ幅が3.6mもの大きな実際の「長久手合戦図屏風」が掛けられ、木床に模写の作業途中の屏風が丁寧に置かれていた。和紙の調査制作、精密に調査された上で制作された和紙がずらりと広げられていた。

和紙は薄い板敷きの上に一曲づつ分けられての制作となるため、充分な広さが求められる。そしてLEDライトを用いてどんな岩絵の具や泥絵の具が使用されたかの割り出し。着色まで気が遠くなる時間がかけられている。

復元模写の制作期間は5年。今年は4年目となり、下絵の上に着色が入り、一層の細心さと技術が求められところ。模写のチームは現役在校生ではなく、同大日本画学科出身の能力の高い卒業生たち8人が一人一枚づつ担っている。
制作は現状模写ではなく、制作当時の色彩をリアルに再現する「復元模写」の手法がとられている。そのため現状の屏風の色合いよりも鮮やかな色彩で屏風が蘇っていくことになります。

ちなみに徳川家康本人は、左から3曲目の山の上、日の丸の旗の近くに、また秀吉方の森長可は左から2曲目の下方に、頭を銃撃で撃ち抜かれた様子が描かれています。

現在、2点の復元模写が平行しておこなわれており、一点は2025年に古戦場公園に新たに完成予定の古戦場ガイダンス施設に展示されるので今後、著名な「長久手合戦図屏風」が目前で見ることができるようになります。

仏画や屏風の保管保全と制作に適した温度と湿度が一年を通し一定に保たれる必要があり(隣にはさらに広い厳重に管理された棟が幾つもあり、法隆寺の何枚もの仏画の修復がおこなわれていた。こちらの復元模写の企画展も拝見させて頂いた)、日本画こ限らないだろうが、こうした目に見えないところに美術大学の運営費が嵩む理由が肌感覚で伝わってくる。

森の木々に囲まれた県芸の環境は、都会の熱波より低く抑えられることを思えば、芸術大学は自然環境に恵まれた場所が適していよう。愛知芸大の設立は1972年。愛知芸大半世紀の間、開拓の波からもはずれずっと緑の森の中にあり続けたことになる。

モリコロパーク、ジブリパークからもクルマで5分。芸大とは森でつながっている。ぜひ一度訪れ、両パークと芸大の広大な環境を体感してみては。


この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。

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