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博覧会と戦争とクルマづくりの系譜【トヨタ博物館】(6)

2022年春に、クルマ館2Fに新しい常設展示スペース「クルマづくり日本史」がオープンしています。20世紀初頭の日本の自動車産業の黎明期から自動車産業の確立期の1970年代までの歴史を辿るものです。系譜をじっくりみると快進社自動車工場などの挑戦や、中島飛行機製作所など飛行機産業があったこと、トラック製造など軍用自動車の製造と、「戦争」という局面が時代背景にあったことが見えてきます。厳しい世界情勢のなか、それでも日本人はエネルギッシュにクルマ製作に挑み続けました。「クルマづくり日本史」に分け入り、再び展示される一台一台のクルマと向き合うとき、クルマづくりにかけた夢と挑戦が感じ取られるでしょう。

クルマ文化資料のミニュチュアカー・タイムラインでも展示された様に、「日本への自動車初渡来」が1898年(明治31年)。ほとんど誰もクルマの存在を知らなかった時からわずか5年後の1903年に開催された大阪万博で外国製自動車が展示され多くの日本人にとって初めてのクルマとの出会いになります。そして7年後の1911年(明治44年)に陸軍がクルマの有用性に目をつけ本格的に<自動車研究>を開始。こうしたクルマづくりに関わるクロニクルがプロジェクターで投影されスライドしながら映し出されていきます。

「クルマづくり日本史」でひときわ目を引くのがクルマづくりの巨大な系譜。黎明期には自動車づくりのベンチャーが見よう見真似で挑戦し、戦争の足音が聞こえると国がクルマ開発を主導、有用な産業として国の方針に組み込まれていきます。クルマづくりには様々な分野の技術・ノウハウ・アイデアが必要であり、複雑多岐な系譜はそれを物語っています。

この複雑な系譜からケーススタディーとして、日本初の民間航空製造会社の「中島飛行機製作所」にすこし焦点を当ててみます。よく知られているように中島飛行機は、あの零戦戦闘機をつくりだした東洋最大の航空機メーカーです。従業員はスタート時はで6人で、戦中は最大26万人。敗戦後、数多いた優秀なエンジニアは、1953年に誕生した富士重工(後にSUBARUに変更)に集い、そしてプリンス自動車誕生にも多くの技術者を送り出しました。

写真は当時の中島飛行機製作所の建物と大工場の上空からの風景

プリンス自動車のGLORIA(1964年)

SUBARUの360(1959)

TOYOTAのModel AA(1936)レプリカ 豊田の創業者・喜一郎が中心になって開発したトヨタ初の乗用車。

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