去る10月12日(日)に開催された祭礼「岩作のオマント(岩作警固祭り)」のレポートです
今年2025年は<愛知県指定無形民俗文化財指定40周年>にあたっており、江戸時代初期より400余年もの悠久の時を紡ぎ、参加者も増えまさに語り継ぐにふさわしい「岩作のオマント」となりました
岩作の火縄銃の鉄砲隊は、江戸時代より明治〜昭和初期にも100人もの陣容を誇ったといわれ、今日に至るも鉄砲隊の規模は100人程、祭礼の日は朝から岩作地区一帯は掛け声とともに火縄銃の発砲音が轟きます
また東と西の2つの警固隊列の出会いの祭礼儀式は、古の儀式そのもので緊張感に溢れています

8時30分に西切馬宿を出発(岩作西集会所)後、岩作西部エリアを巡って各所で発砲、11時頃に岩作寺山へ

後方の山は長久手合戦の重要な局面で徳川家康が「金扇の馬印」を掲げた御旗山(当時は富士ヶ根)
富士浅間神社が江戸時代に創建され社殿、石票がたつ。境内は国指定史跡
香流川沿い(岩作寺山)での火縄銃発砲
本笠、祭事〜火縄銃発砲後、杖付き、馬囲い、綱付き、神馬、棒隊がつづきます
鉄砲隊を含めるとざっと300〜400mにわたり約130人ほどで神馬を警固します(東西の隊列を合わせると270人程)
神馬の背には檜(ヒノキ)の皮を薄く剥いだもので馬飾りされた岩作オマントならではの標具(ダシ)に注目
8時50分に東切馬宿(中根原集会所)を出発後、岩作各所を練り歩き、色金山西エリアの道中、鉄砲隊が発砲
江戸時代から鉄砲隊の人数は100人近くあった

長湫地区と共に100人以上と近隣他地域よりも際立って多い鉄砲隊
江戸時代後期の文政13年(1830年)の岩作の警固祭りで120人の鉄砲隊の参加があったことが記録(もう少し少なかったのではという推測もあり)されているとのことで、もしその記録が本当であれば当時の村の人口から推測しても鉄砲隊だけでも相当な人数が参加していたことになる
いずれにしろ江戸時代=明治〜昭和初期に至るまで他地域と比べかなりの大人数で構成されていたようである
「警固祭りにおける鉄砲隊について〜岩作のオマント」参考資料

東切り警固隊列と西切りが警固隊列が東西合流する市役所北の駐車場(左方)と石作神社前の田圃
かつて江戸時代には、岩作銀座商店街にある「行者堂」が、明治中期からは長久手小学校の校庭が東切りと西切り警固隊が出会う場所でした
その後、両者の馬元を訪問(馬場見せ)し、隊列が氏神である石作神社であがるのは翌日となっていました(昭和38年まで2日がかり)

長久手市国際交流協会(Nagakute International Association)の活動で長久手に滞在し交流活動をしている皆さんとサポートメンバーの方々
皆さんかなりエキサイトしていたようでした

東切り警固隊列と西切りが警固隊列が東西合流
羽織りを着て祭礼を取り仕切る代表祭事や杖付き、青年団代表らが相対して「出会い」の挨拶と祭礼の伝達の儀式
緊張感が迸る一連の儀式の様は、江戸時代の祭礼の様子そのもののようである

東西隊列の火縄銃発砲、献馬の疾走など一連の祭礼儀式が終了するといよいよ石作神社へと向かいます
東西警固隊列の合流後、石作神社への道中での鉄砲隊発砲

氏神である石作神社へ
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