長久手市には、居住エリアがまったく異なると、長年住んでられる方でも他のエリアにある公園のことはほぼ知らないことも多いかと思います。上郷や市が洞地区の方にとってはこの原邸(はらやしき)公園もその一つのようです。
場所は長久手北西部の落合交差点や北小学校の南側の香流川沿い。もちろん「原邸公園」ともなれば、北小校区の住民の方々には暮らしの中の一部となっている方も多いでしょう。
今回、原邸公園を訪れるのは3度目でしたが、昨年晩秋に訪れた時とは随分違ってすべての樹木が新緑に輝いていました。
そんな「原邸公園」を少しだけ写真レポートしてみました。
Back to last late autumn 〜 2023年 原邸公園の晩秋へタイムスリップ
「原邸(はらやしき)公園」正面の公園名称プレート。
かつてこの辺りに何がしかの原さんの屋敷(邸)があったのだろうかと思っていたが、どうも確かな情報はない。『長久手町史実 資料篇4』にも「『字限図』には1筆の宅地はなく、なぜ原邸の地名が付いたのかはっきりしない」とある。同時に、次の記述もある。
「昭和になって香流川の屈曲が直線化されて、原邸の北端が香流川の北側にとり残された。その地点に享保から宝暦、安永にかけての墓塔が6基並んでいる」とある。そして「法名から考えると武家か豪農のものらしく思われ、昔ここにだれかの屋敷があったのかも知れない」と。
2023年11月20日撮影
原邸のすぐ南側に接する地名の「山脇」は、江戸時代には「山屋敷島」と呼ばれていた。
この「山屋敷」とは当時新しく分家した人たちの屋敷とのこと。よってこの辺りの豪農(原邸に隣接し「野田農」の地名がある)の屋敷が各所にあった可能性は捨てきれない。
長久手市内には現在、「原」の苗字をもつ方は40人ほどおられる。その方達の先祖なのかとも思ったが分からない。現在の原邸の周囲に「原」の表札は掛かっていないけれども香流川の北側の飛び地(現在は北小学校が建つ)のようになっている場所にあったと推測されている武家か豪農がそうだったか資料では詳らかではない。
地図引用元:『長久手町史実 資料篇4』より
長久手の地図からも分かるように、「原邸」より西側の地区には「原」の付いた地名が相当ある。西原、東原、東原山、上川原、中川原、下川原などだ。よって「原」とは苗字ではなく「平原」や「原っぱ」の「原」の意味の可能性が高い。そこに豪農か武家などの立派な「邸」があったのではなかろうかと推測してみた。
公園の西側にはこんもりしたお椀型の小山があります。
2023年11月20日撮影
ちょっと変わった「コンビネーション遊具」
昭和時代とちがって最近の公園には、いろんなタイプのコンビネーション遊具があります。なかでも原邸公園にあるのは、少し年かさのいった子供たち向けのコンビネーション遊具で、小さな園児ではちょっと無理目。
原邸公園の広場は広く球技もできるので、公園特性を考えて設けられたのでしょう。
小学生も半ばになってくると皆んなで球技をしたりする子が多いもので、この日もこの遊具で遊んでいる子供はあまり見かけませんでした。寄ってくるのは実際にはこの高度な遊具では遊びきれない好奇心のある小さな子供で足をかけてなんとか登ろうとする姿でした。
一方、この公園が全体に樹木に溢れ何処か麗しさもあり、よく見かけるワヤワヤした複合型遊具ではない大人びたタイプのコンビネーション遊具を選択したのは間違いでなく、むしろこの空間に合っている感覚を持ちました。成長しはじめる子供たち「こんな遊具もあるんだ」と、与えられるのではなく遊びつつも「考える」遊具になっていると思いました。
原邸公園から100m程西側、北小校区共生ステーションの裏手にある段の上上川原公園。
ここにあるのは市内によくあるタイプのコンビネーション遊具。
公園脇の香流川沿いの遊歩道。ところどころに一服できるベンチもあります。この景色の少し奥に北小校区共生ステーションがあり毎朝土曜朝に「しゃべり場」が催す朝ウォーキングがあります。