長久手の北隣に接する尾張旭市は、日頃からよく名前を聞く市ですが、訪れる機会がなかなか無い方が多いかも知れません。もっとも長久手高校のすぐ裏手にあるスーパー「TACHIYA長久手」の実際の住所は、張旭市南栄町旭ヶ丘で尾張旭には意識せずに毎週通ってられる人も多いようです。国道363号線沿いに居並ぶお店などを使用する方も多いでしょう。
それより北側になると機会は相当減るのでは。今回、国道363号線をさらに北上し城山公園まで訪ねてみました。そこにあるのは展望塔のような「スカイワードあさひ」やお城のような建物や古民家。城山公園は長久手の古戦場公園や都市公園とはずいぶん異なる公園で、大型公園の造りに各自治体の考えや歴史が自ずからあらわれるようです。
隣の自治体を訪れると長久手との地理的、文化的、歴史的なつながりが俯瞰的によく見えてきたりします。視点が複数、多面的になるためです。城山公園や旭城など、訪れてみると新たな気づきもきっとあるでしょう。
この旭城は昭和52年(1977)に建てられました。遡ること1361年に地元の新居村を拓いた水野良春の子孫・水野雅楽頭宗国が築城したと伝わる「新居(あらい)城」があったという説(詳細は不定)をもとに鉄筋コンクリートで築城されました。
実在したものを復元したものでなく、かつて城の中心があった城山の西斜面には幾つもの土塁や堀が見られ、居城を兼ねてこの地方の豪族(ルーツは守山の志段味)の水野氏が平山城として築城したとのこと。14世紀の中世に天守閣はまだないので「模擬天守閣」としての築城でした。
旭城は、尾張旭市が築城したものではありませでした。ではなぜ四層の本格的な城がここに建っているのか?
実はもともと尾張旭市が市の象徴として建設したものではなく、1977年に雇用促進事業団が「勤労者福祉施設」(野外趣味活動施設とも)として建設したものだったのです。それを平成15年(2003年)に尾張旭市が譲り受けたものでした。それまで「旭城」が通称として用いられていたため、その名称を正式名称(尾張旭市旭城)と定めたとのことです。
ちなみに総工費は、当時9,500万円だったとのこと。今日だとおよそ3〜5億円になるでしょうか。資材や人件費の高騰でもっとするかも知れません。
2階には、和室(15帖の茶室)と8帖の控室があります。
利用料は1時間400円。それ以外、最上階を含め入城は無料になっています。
旭城(新居城)は、山城ではなく平山城なので、城山公園の丘の上から見るとお城が下方に見えます。四重四層のお城です。
右奥のタワーが展望台や天体観測室、歴史民俗資料、文化施設などがあるホール「スカイワードあさひ」。瀬戸から長久手、そして名古屋方面が眺望できます。
旭城1階はレストハウス。レストランになっています。
全国で54城ある「模擬天守」について
旭城は、「模擬(もぎ)天守」の分類となります。「模擬天守」とは、元来、史実でが天守は無かったはずの城(居城)に、後世に造られた天守の呼称。
また天守は存在していたが実際の天守とはおよそ異なるものを創作で建てたものも「模擬天守」と一般に呼ばれています。
シンボリックな「天守」は安土桃山時代に広まった建築物でですが、天守を有しない城も多く存在していました。
日進の「岩崎城」豊田の「足助城」、知多市の「大草城」のみならず、「清洲城」「小牧山城」「郡上八幡城」「墨俣城」「竜泉寺城」「浜松城」も、さらには「伊賀上野城」「長浜城」「伏見城」なども「模擬天守」のくくりに入ってきます。
全国で「模擬天守」は、54城あるのみ。旭城は全国的に見てもそうは多くない城の一つと言えるかも知れません。
以下、現存天守などを参考までに。
現存天守は、「犬山城」「松本城」「彦根城」「松江城」「姫路城」「松山城」などわずか12城。
木造復元天守は、「掛川城」や愛媛の「大洲城」のわずか5城
外観復元天守は、「名古屋城」「大垣城」「和歌山城」「広島城」「熊本城」「会津若松城」など9城
復元天守は、「大阪城」「岐阜城」「岡崎城」「小田原城」「岩国城」「島原城」「越前大野城」など14城
城内はエレベーターはなく階段で上り下り。他のお城の画像や資料などが懸けられてある。
最上階の展望室からの眺望。東の瀬戸方面。通りは城山街道。
隣に建っているのが復元古民家(この地方の標準的な農家の造りとのこと。1816年建築)。詳細は後日、取り上げます。
最上階から南方を望む。ほぼ見えないが奥の方に長久手市。
城の展望台から田圃を見下ろすとアート作品に気づくという仕掛けもあるとのこと。
今回は「けんこうとし・あさひ 20th」と文字が水田に現れていました。