「愛・地球博」の当初のメイン開催地だった「海上の森」のさらに奥にあるのが「海上(かいしょ)の里」です。長久手や瀬戸市の街中からものそれほど遠くはない東部丘陵のなかに、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような幻のような場所です。
しかもそこにかの武田信玄公の隠された墓があるという伝説がある「陶龍寺」があり、ディープすぎる里山地帯になっています。興味がある方は訪れと相当驚かれると思います。
瀬戸・山口から少し奥に入ったところに駐車場があります。さらに奥に道はありますが基本的に「海上の里」の住居や田圃の所有者が使用する道のようです。
駐車場に立てかけてある「海上の森」に関する看板。これから向かう里山が「海上の森自然環境保全地域」の中にあることがわかる。
「海上の森」の史跡と武田信玄公の密かな動きは各所にある。「海上の里」への途中にある「塔山城跡」もまたその一つ。古い村の絵図に、「甲斐信玄番持古城跡」と記されているという。
長久手をさらに知ったり発見するには、とくに隣の自治体のことを一定程度知っておくとよいとよく思います。そでれないとどこか蛸壺的な考えになってしまうからです。本来、山や川、丘陵や森に生態的な区切りがある訳もなく、俯瞰的に見た時に見えてくることも多いはず。
瀬戸に入るとあたかも日本地図を逆にして上側から見る感覚と似ていて、視点や立脚点を移動してみることができます。
「海上の森」にある「物見山」(武田信玄公が築いたと伝わる土塁跡がある)の山頂から遠く濃尾平野を眺望するように、もしや新たな展望が加われば幸いです。
とにかく見事な谷津田(谷合の田んぼ)の景色が忽然と現れ圧倒される。
景行天皇の息子「ヤマトタケルノミコト」は、東征する際に「海上の森」を通っていった伝承
ヤマトタケルノミコト(日本武尊)
ここから150mほど奥に幻の「陶龍寺」があった場所が。道は舗装されていますが奥に駐車場らしき場所はありません。Uターンで戻るのも困難な場所です。「アトリエ陶龍寺」の近所の住人が利用する道になっています。
かつて存在していた「陶龍寺」は焼失し、幻の寺院となっています。現在はお寺でなく古びた趣きのある平家の住居が建っています。
海上の森の土地に深くつながる山田眞喜美さんのお宅とのことです。
かつて存在していた「陶龍寺」は歴史上の寺院となっていて、現在はお寺でなく古びた趣きのある平家の住居が建っています。海上の森の土地と山田眞喜美さんのお宅とのことです。このお宅の前には加治田甚五郎という長久手藩主だった池田公の家臣の墓があり立派な家室がつくられていたとのこと(『海上の森奇譚 – 愛知万博開催地に秘められた歴史の真実』(山田みち江著 今日の話題社刊)
かつて陶龍寺の敷地内にあったという弘法堂(弘法様は建物の中に)
*Google Map上の目的地の表示は「アトリエ陶龍寺」になっていますが、かつてその場所に「陶龍寺」があったとされます。
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初めまして。
海上の森と陶龍寺を取り上げていただき誠にありがとうございます。
今年5月にお越し頂いてみえたのですね。
今、市民団体で「尾張瀬戸武田信玄古城再建プロジェクトチーム」を発足させ、武田信玄が瀬戸に来ていたとされるいくつかの史跡を元に調査し瀬戸市を盛り上げようと活動しています。
もし宜しければ、またお越しください。
コメントありがとうぎざいます。
市民団体で「尾張瀬戸武田信玄古城再建プロジェクトチーム」を発足させていらっしゃるんですね。それは素晴らしい! 心より応援いたします。
私は長久手の森長可(鬼武蔵)が廃城を改築した大草城復興の市民団体に幾らか関わっていますが、聞くところ予算がなかなかつかず(積極財政が封じられ緊縮財政路線に)このところ機運が盛り上がってきていません。
「尾張瀬戸武田信玄古城再建」のプロジェクトを大いに刺激にします。ロマン溢れます! 「武田信玄古城再建プロジェクト」そのものもとても関心がありますので、機会ありましたら呼んでいただければ幸いです。
長久手市民に向けて問題ない情報を発信できればと思います。ワクワクするのが一番ですので。
来月あたり5月に記録撮影していた海上の森のレポートをもう1本、公開する予定です。