色金山歴史公園にある茶室「胡牀庵(こしょうあん)」は、前回取り上げたように織田信長の実弟の大名であり大茶人である織田有楽斎が京都・建仁寺に建てた「如庵」(国宝茶室 1972年に犬山市に移築)を模したものですが、「如庵」内部を見ることは極めて限られ、存在的にとても貴重な庵です
東京の「有楽町」は、織田有楽斎の名に因んでいます。「有楽町」は茶人が多く住んでいたそうです。昭和でよく歌われた名曲「有楽町で逢いましょう」(歌 フランク永井)の曲の遠い源流には、有楽の場に気兼ねない人を茶会に誘っていろんな話をした日本人の記憶が奥底にあったのではないでしょうか
あの人と「胡牀庵」で落ち会い、お茶と景色とゆっくり流れる時をゆるりと楽しんでみてはいかがでしょう
「胡牀庵」で逢いましょう!
パノラマモードにての撮影
織田有楽斎(長益 ながます)1547~1622没
戦国の織田信長の実弟
大名であり茶人。茶道草創期の茶人。
千利休に茶道を学ぶ(利休十哲の一人)
後に茶道有楽流を創始信長の傅役(かしずきやく:お守役)で教養や文化に長けた平手政秀が長益の傅役だったと言われている
軍馬から落ちて怪我をしてからは、出陣しても前線に出ることはなく、交渉役や文化交流、教育係の役目を担う
東京・有楽町の「有楽」は、織田有楽斎に因んで付けられた
東京の「有楽町」は織田有楽斎に因んでいますが、有楽斎自身が「有楽町」の当時の地で茶をたてたかは歴史的にどうも不明なようです。ただ現在の「有楽町」の地で多くの茶人が住み茶会を開いていたようで、織田有楽斎門下もきっといたことでしょう。きっとお茶をいただきながら時の移り変わりや江戸の暮らしや新たな職のことなどいろんな会話がなされていたことでしょう。
「胡牀庵」から廊下を渡って「さつきの間」へ
和室「さつきの間」「かえで間」のご利用については色金山歴史公園・茶室管理棟へ(使用料、使用日時・時間など)