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【長久手大草城の歴史とプロジェクトについて】加藤義郎さんに訊く(1)

長久手には家康・信長・秀吉の戦国時代以前に3つの城がありました。長久手城、岩作城、大草城です。大草城は、長久手東部の里山エリアの丘陵(大草丘陵)の頂きにありました。
今回、大草の地に代々居を構える加藤組の加藤義郎さんに大草城の歴史と、長久手の戦いで戦死した鬼武蔵・森長可(もりながよし)と大草城のかかわりなどお伺いしました。

加藤義郎さんは、かねてよりこの地の歴史と環境特性を絡めた地域活性化と夢とロマンをつなげ、「大草城(復興)プロジェクト」のヴィジョンを発信し始めまています。まずは大草城とはどんな城だったのか伺ってみました。

大草城跡地の西側に「城下」という地名がある。そこから細い路を辿る。

熊野神社脇にある道標。

奥に見えるのが熊野神社の建物の一画。大草城跡の石碑は、熊野神社の西側の少し小高い所に建つ。
承久の乱(1221年)の後、この地の豪族・山田重忠(源氏)の領地にあった城塞・居館がほぼ焼かれた時期に、大草城も焼かれ廃城となり長く放置されていたといわれています。

後に織田信長が、美濃の兼山城主の森長可(森蘭丸の兄)に、現在の長久手の地にある上郷という三つの村の差配をゆだね(1579年)、対三河、対徳川勢への備えとするため大掛かりに改築しました。濠や土塁、曲輪、城郭などを整備、本格的な城塞にしたと想定されています(長久手市郷土史研究会)。

森長可は、当時の上郷三ケ村の地頭で豪族の福岡新助に城代を任せ、再び岐阜に戻っています。長久手の戦いで秀吉方の武将、池田勝入と森長可が討ち死にした後、多くの落武者が大草に流れ込んだのはそうした背景があったためでした。

大草城に立て篭もった森と池田の軍勢は幟や幡をたて、徳川軍を挑発する姿に家康は激怒したと伝えられています。

大草城跡から南方の田園方面を眺める。この地点からは見えないが左手奥にモリコロパークの観覧車が見える。

土木・庭園一式を請け負う株式会社加藤組のオフィスの2階にて。壁に立てかけてあるのが地元の郷土史研究家の中野さんが描かれた「山田庄大草城想像復元図」。

「尾張志」に記された大草城

大草城跡から南側に降りる昔ながらの道。この道は古く北側・権藤寺へ通ることができ、現在のバス通りへ出て瀬戸の菱野の地につながっている。江戸時代には瀬戸と岩作を結ぶ主要な道であった。

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。

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