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海上の森・元愛知万博開催地の秘められた歴史

「海上の森」(カイショの森)は、「愛・地球博(愛知万博)」(2005年開催)の最初の会場予定地(瀬戸市)としてその動向が注目を集めました。

 最終的には、準絶滅危惧種に指定されているオオタカの営巣が確認されたり、3000種以上の動植物の存在、そして森を破壊した上での万博は時代に逆行していると大規模な反対の声が高まり、万博会場は、「自然自体」を展示物とする自然体感プログラムの中心地としての瀬戸会場となり、メインの開催地としては、隣町の愛知青少年公園がある長久手市に変更されたのでした。

 

「海上の森」はなぜ「海の上の森」という名前になっているのでしょう。左に掲載した古い尾張国養老元年之図(奈良時代 西暦717年 「日本書籍」が完成したのはこの3年後のこと。猿投神社所蔵)をご覧ください。

地図のほぼ中央の右端に瀬戸、赤津、(長久手の中心ちの)岩作の地名が見えます。そのすぐ近くが入江になっています。かつて縄文時代に名古屋の地はほぼ海だったと言われてましたが、縄文海進で内陸までえぐられた海は、奈良時代までその名残りが確かにあったことがこの近くの猿投神社が所蔵してきた古地図からもみて取れます。

現在の名古屋の西部、南部一帯と、北部と北東部、東端一帯にまで東海の海になっていたのです。熱田神宮のある熱田は、半島の南端にあったことがこの古地図から手に取るようにわかります。

 「海上の森」がある一帯は、1,300年程前、実際に広大な海へとつながる深い入江となっていたのです。そして海と直結するように猿投山へとつながる深い森が広がっていたのです。

「海上の森」の存在は、この地方の人ならばほとんどの方に知られていますがなかなか行きずらいエリアでもあるので訪れる人は恐らくかなり限られています。

 私の場合も同じく森に入ったことはこれまでありませんでした。今回なぜ気になったか。
きっかけはジブリパークがオープンした2022年11月に、パークの入口近くにできたジブリグッズの売店で『海上の森奇譚 愛知万博開催地に秘められた歴史の真実』を手に取ったことでした。翌月に再び行った時にも、気になってい他のでしょう、またも手にとってパラパラとページをめくって読んでみたのです。これは読まなくてはならない本だと直感で感じたのでした。

 「海上の森」への入口。それは愛知万博の瀬戸会場がおかれた場所近くにありました。今年1月半ば、森に分け入ってみた時の記録です。

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。
コメント (2)
  1. 梶井直味(尾張武田信玄古城再建プロジェクト) より:

    加藤様

    初めまして、瀬戸市在住の梶井と申します。
    この度は、「海上の森」「武田信玄」「陶龍寺」をご紹介いただき誠にありがとうございます。

    私は、陶龍寺で武田信玄公、松姫、茜姫、勝頼、聖徳太子、梶田甚五郎、卑弥呼、海上の森で亡くなった武士の墓守りをされている山田みち江さんと息子さんの山田豪さんから瀬戸が「武田信玄公」と深い繋がりを持っている場所だと伺い現在仲間と共に「尾張武田信玄古城再建プロジェクト」を立ち上げて今ある陶龍寺の場所にお城を再建しようと活動しています。
    毎月第2日曜日の10時〜山口憩いの家にて勉強会と史跡をご案内しております。
    午後からはご希望あれば、信玄滝、大正池、石切場、物見山(天目山)、聖徳太子のお墓、間道、土塁などをご案内しております。
    陶龍寺では、瀬戸の不思議話を山田みち江さんから紙芝居を使って話を聞いたりしています。
    山田家は、山田庄の末裔です。
    山田庄は清和源氏。武田信玄公も清和源氏です。
    「3年間死を隠せ」という遺言。今もハッキリとした死に場所は分かっておりません。
    私達は、清和源氏繋がりで山田庄が統治していた瀬戸へ来て静養していたのではないかと思います。
    海上の森内には「桜ヶ池」がありました。
    その淵には「諏訪」と書かれた石碑が建っていたのですが現在は、万博時に池が壊され、石碑は別の場所へ移動されてしまいました。
    武田信玄公は、諏訪の海に骨を散骨を望んでいたとされる石碑を娘松姫が、前田玄以に頼んで残しています。(瀬戸のお墓の一画にあります。)
    長野県の諏訪湖を意味していたのか、海上の森内にあった桜ヶ池を指していたのかも不明です。
    そして、また松姫と織田信長の息子である信忠との間に「三法師、秀信」が産まれています。歴史本では、三法師の母は不明ですが、中には松姫と書かれた本もありました。
    三法師の末裔も瀬戸に「西山自然歴史博物館」を建てておられ、そこには「織田信長のデスマスク」や三法師が織田軍として武田の武田菱の入った赤い甲冑を着て戦っている姿の絵があるそうです。
    西山先生も真の歴史をご存知の方です。
    今はご高齢で博物館が朽ちてきており、貴重な資料を早く持ち出そうと思っております。その資料は陶龍寺跡に建てるお城内にて展示を計画しております。
    愛智神話の牧さん、神人さんも引き寄せられて陶龍寺へ来てみえます。
    本当に不思議な場所で、街の活性化にも良いと思い瀬戸市にも議員さん達にもお声掛けしていますが残念ながらまだお一人しかご参加頂いておりません。
    長久手市からも近い観光地になると思っております。
    また海上の森の東には、日本でも珍しい「ラドン温泉、金泉閣」があります。
    海上の森も掘ればラドン温泉が出ると思われます。
    里山観光地として盛り上がっていけたらと思います。
    よろしければ、勉強会へお越し頂けたらと思います。

    長文にて大変失礼いたしました。
    どうぞよろしくお願いいたします。

    1. MASAKI KATO より:

      梶井 様
      はじめまして。メール有難うございます。

      「尾張武田信玄古城再建プロジェクト」の件、昨年夏だったかメールいただきましてそんな驚きのプロジェクトが進行しているのかと思っておりました。
      メールいただいたのは梶井さんのお仲間の方だったかと思います。

      毎月第2日曜日に勉強会と史跡をご案内されているのですね。興味深いです。
      ぜひに参加させて下さい。

      今月の第2日曜は、あいにく午前10時半から午後1時過ぎまで、長久手の「成人式」が初めてジブリパークで開催されることになり取材に行くことになっております。
      つきましては来月2月の第2日曜にぜひに参加させて頂ければ幸いです。

      清和源氏繋がりで、山田庄統治下の瀬戸に! 「諏訪」と書かれた石碑ですか。松姫のお話など、、三法師の末裔の方が経てられた「西山自然歴史博物館」! それを陶龍寺跡に建てるお城内に!
      なんというプロジェクト! 平山優さんも知らない話しかもしれないですね。平山優さん、しんちょの「小牧・長久手合戦」で、長久手東部の大草城のことは情報に突き当たらなかったのか手持ちの
      合戦資料と整合性が取れなかったのか理由不明ですが描かなかったですしね。
      海上の森、これから時代を超え盛り上がっていきそうな予感がします。

      それで引き続きよろしくお願い致します。

      加藤

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