古代長久手の地と古代の都の「飛鳥(あすか)」がつながっていた!? そんなロマン溢れる発見が、21世紀になってからありました。今から約1300年前(7世紀後半の後期古墳時代)、長久手市南部の丁字田と市ヶ洞の窯で焼かれた須恵器が、奈良県明日香村にある石神遺跡で出土しました。朝廷への貢納品で「税」として「甕」などの須恵器が納められていたとのこと。
日本三大古窯の一つ「猿投古窯」の窯でつくられた須恵器がタイムマシンとなって21世紀に蘇っています。
約1,100度の高温で焼きあげる須恵器は、従来の土器と比べ水漏れしにくい丈夫な器とされます。よって暮らしに重要な酒や水などを貯蔵する「甕(かめ)」や「瓶(へい)」に用いられることが多かったといいます。
市が洞小校区共生ステーション内「ほとぎのさと展示室」での展示
この甕(甕)の須恵器を含め、丁子田1号窯、市ヶ洞1号窯で出土した「刻銘須恵器」10点が、平成24年、市指定文化財となっています。
市が洞共生ステーションのすぐ目の前にある貯水池。ここから市ヶ洞と丁字田の窯跡まで近い
市が洞小校区共生ステーション。この建物の中に「ほとぎのさと展示室」があります。
「瓫五十戸」(ほとぎのさと)」の意味
「瓫(ほとぎ)」とは、酒や水などを入れていた素焼きの器のこと。
「五十戸(さと)」は、「五十戸」と書いて「さと」と読むとのこと。「里」や「郷」の古い表記。なぜ「五十戸」かというと、古代律令制ではおよそ「五十戸」が一つの集落とされていたため。
「五十戸(さと)」のすぐ前の字がその土地の「サト」の名称になるといいます。よって「瓫五十戸」の「瓫」がそのまま「サト」の地名になっていたようです。
尚、長久手に隣接する名古屋市名東区猪高町上社井堀からも「瓫」と刻まれた陶片が出土されていることから、上社から長久手の市ヶ洞にまたがる一帯が、「瓫(ほとぎ)」というサトだったようです。
(参照元:「ほとぎのさと長久手」パンフレット 監修 愛知淑徳大学教授 柴垣勇夫 編集・発行 長久手市)
市が洞小校区共生ステーション内「ほとぎのさと展示室」。映像紹介の場面
口径54cm、高さ117.5cmの大甕も出土
口径が54cmもある巨大な大甕(おおがめ)。なんと高さは117.5cmもある。実際にはバラバラでで出土し、つなぎ合わされました。こちらは現在、長久手古戦場公園資料室に保管されているとのことです。古墳後期とさほど変わらない飛鳥時代の窯跡から発見されたもの。
岩作の「石作神社」の創建は、9世紀の834年で、丁子田1号窯、市ヶ洞1号窯出土の須恵器はその半世紀ほど前のもの(平安時代の「延喜式神名帳」に山田郡の石作神社と記載されている)。岩作の「石作神社」と飛鳥の「石神遺跡」はなんらかの関係があったのかもしれない。
飛鳥の「石神遺跡」の石像
さすが古代の都「飛鳥」。石神遺跡は、朝廷の迎賓館や役所としてもちいられていた施設とのこと。ここで長久手からの「甕」などの刻銘須恵器が出土しました。
現在の奈良・飛鳥の地。山と田圃のある土地柄は、自然溢れる景色は、現在の長久手東部の里山の風景と似ているかもしれません。
こちらは長久手東部里山エリア