執筆:小林鑛一(こばやしこういち):郷土史研究家 長久手市郷土史研究会会員
NHK大河『どうする家康』で松本若菜さんが演じる才智ある「阿茶局」について、長久手市郷土史研究会会員の小林鑛一氏が、これまで知られていなかった「阿茶局」の、とくに一族の出自と末裔について深い調査研究をパネル展と小冊子のかたちで発表されて耳目を集めています。
今回、小林氏の許可を得てそのさわりを「長久手タイムズ」に掲載致します。また知られたことではありますが、阿茶局は「小牧・長久手の戦い」の戦陣に同行し、陣中で流産しています。このことは高速な展開のドラマでは触れられることはありませんでした。側室であり、側近であったことは、苛烈な戦場においても二人を強い愛情と絆で結んだのでした。
今回、掲載させて頂いたのは、主に家康公との出会いや側室となった経緯の部分です。阿茶局の父親の飯田久右衛門(源信照)のこと、二人の出会いを取り持った今川氏・武田氏の家臣で後に家康公の家臣となった成瀬正一氏のこと、さらには阿茶局の兄、弟についてのことなどは含まれていません。
21ページに及ぶ小冊子のご購入をご希望される方やお問い合わせは、小林鑛一氏まで直接連絡してください。
連絡先:090-6579-6085(小林鑛一)
阿茶局は、武田氏の家臣・保延氏の子(初名は順)として甲府に生まれています。武田家臣の血筋だけあり、馬術・武術にも優れていたといいます。後に今川氏の家臣・神尾忠重に嫁ぎ2子をもうけましたが忠重とは早くに死別しています。
須和の名で側室として家康公の相談相手となるなか、次第に全幅の信頼を得るまでになります。徳川軍が参戦した戦場においても何度も家康公に供奉しています。
また大河「どうする家康」で、豊臣方との政治的折衝に携わる場面が描かれましたが(隠密の御用聞きとして)、「大阪・冬の陣」では和議を成立させています。単なる側室の枠を超え、無類の手腕を発揮した側室として知られています。
手前に長久手古戦場公園。奥に御岳山。阿茶局は、側室になって2年後の「小牧・長久手の戦い」にも同行していますが、陣中に流産しています。大河ドラマ「どうする家康」では、この頃まだ阿茶局は登場せず、お愛の方(西郷局。広瀬アリスが演じた)が前面に出ています。もっとも戦陣に同行したのは、正室のお愛の方ではなく、側室の阿茶局だけでした。
長久手市福祉の家で催された歴史パネル展「阿茶局 – 一族の出自と末裔 – 2023年10月
「小牧長久手合戦図屏風」(引用元:犬山成瀬家所蔵) 成瀬正一の長男、成瀬正成は後に犬山成瀬家初代当主となります。成瀬正成は長久手合戦で、家康の馬廻りの一人として出陣しました。
この合戦図屏風には屏風に2ヶ所、成瀬正成の姿が描き込まれています。阿茶局の兄の安信は、この成瀬氏の家臣となり、家族の関係からも家康の深い信任を得ることになります。
「阿茶局」の菩提寺の東京・清澄白河にある「雲光院」(浄土宗 龍徳山)。清澄白河庭園と東京都現代美術館の中間に位置しています。阿茶局の法号「雲光院」がそのまま寺院の名称になっています。「阿茶局」自らの発願で、芝・増上寺の高僧・潮呑上人を初代住職として開創されました。
今回の長久手でのパネル展には、「雲光院」のご住職も東京からわざわざ来られて、小林氏によって掘り起こされた阿茶局とその一族の歴史と事実、その背景に大いに感嘆し、お二人で雲光院や一族を巡ってお話が盛り上がったとのことです。小林氏もまた「雲光院」を訪れ親交を深めています。
雲光院にある阿茶局の墓所。阿茶局は、同行した「小牧長久手の戦」の陣中で流産します。
その後、家康とのあいだには子が生まれることはありませんでしたが、家康は終生、阿茶局を愛し続け、大御所となって駿府城に籠った際にも側室の中で唯一、駿府城に入り家康とともにした人物でした。
阿茶局は家康の願いから二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に仕えることになります。また幕府と朝廷間の融和にも務め、徳川幕府にとって無類の存在であり続けました。寛永14年(1637)、家康が没してから21年後、83歳で亡くなっています。
執筆:小林鑛一氏 S22年生まれ 長久手市在住
長久手市郷土史研究会会員
歴史パネル展
「井伊一族の系譜と家康の子・孫たち」H25
「徳川家康の正室・築山殿の展示」H28
「秀忠の母・西郷の局の祖先と末裔」H31
「美濃・尾張源氏」R4年
「愛知県史にも書かれていない源氏の歴史の調査・展示