長久手市内はもちろんいろんな雛祭りが催されていますね。今回は尾張地方独特の金のシャチホコが屋根にのった「御殿飾り雛壇」が展示されていた隣の日進市の「岩崎城歴史記念館」で開催されていた「特別展 にっしんのおひなさま」をレポートいたします
長久手南部に隣接している日進市の岩崎に建つ「岩崎城」(長く廃城だったが1987年に竣工)は、「小牧・長久手の戦い」において一つの重要なプロローグとなる「岩崎城の戦い」で知られ、立派な城郭があります。かつては織田信秀(織田信長の父)の持ち城でした。
戦国時代には、古代尾張国丹羽郡に住んでいた豪族であった丹羽氏が移り住み城主となっています。「長久手合戦」では、「三河中入作戦」で進軍する池田恒興隊と交戦し、家康方についていた丹羽氏の城兵全員が討死しています。
そんな歴史がある「岩崎城」でみる「おひなさま」はまた格別なものがありました
会期:1月25日〜3月16日
郭の北側にはり廻らされている土塁と空掘を抜けて城郭に向かって行きます
長久手方面からクルマで来る場合、公園北側の駐車車から降りて向かうと二の丸庭園跡・岩崎城古墳にも足を伸ばすことができ、岩崎城の全体感が感じられます
岩崎城と右手の建物が「おひなさま」特別展が催されている岩崎城歴史記念館
「金のシャチホコ」がのった御殿飾りの雛壇
雛壇の最上階にある立派な建物は、京の都の天皇の住まいである御所・内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)をなぞらえてつくられたと考えられている「御殿」です。「御殿」に飾られた一番上段のお人形は天皇・皇后が模されていました
この御殿飾りの雛壇は、終戦の1945年に造られたものですが、空襲で消失した名古屋城の象徴の一つ「金のシャチホコ」に加え神社の千木(チギ)が取り付けられています。御殿飾りは大正時代から昭和30年頃にかけて流行ってつくられたそうです。日進市によるとこうした形に雛壇はこの地域独特のものとのこと
御殿飾りにも用いられるようになった<人形用の家>は、はるか昔、平安時代の「源氏物語」にも記述されていて貴族の子供たちのごっこ遊び用になっていたようです。直接的な影響はありませんが、後のリカちゃん人形のドリームハウス(1967年に人形とともに初めて作られた)にもどこか通じるものがあるのかも知れません
たくさんの人形や道具を飾るために段飾りが流行したのは関東に対して、関西では京都の御所での華やかな生活が緻密に再現されたのが「御殿飾り」だったとのことで、関西・東海・東北地方の富裕層で流行ったものと言われています
金のシャチホコが建物の上に乗せられたのは東海地方の「御殿飾り」だけでした
「牛車(ぎっしゃ)」 牛にひかせる平安時代の貴族の乗り物
「御駕籠」 お雛様の御輿入道具。お姫様らを乗せて運びます
屏風段飾り
雛段に雛人形を段飾りに並べ、併せて調度類も並べる方法は、庶民のあいだに雛祭りが流行り出した江戸時代に関東地方で考案されたとのことです
「親王飾り」の「お雛様」
東海地方では、段飾りや御殿飾りが流行る以前の明治時代から盛んに飾られるようになったといいます
当時は、「お内裏様」とは「女雛(めひな)=お姫様」と「男雛(おひな)=お内裏様」の二体一対を合わせて「お内裏様」と呼んでいたとのことです
「犬筥(いぬはこ)」
犬は安産の象徴で嫁入り道具の一つだったものが江戸時代になると雛壇に飾るようになった。少女の成長と幸せを祈る意味が込められている
戦国時代より岩崎城を治めていた丹羽氏系図と「表忠義」碑
「小牧・長久手の戦い」以前、岩崎城主・丹羽氏次は織田信長に仕えていましたが本能寺の変で信長が落命。丹羽氏次は信長の息子の織田信雄に仕え織田・徳川軍勢に与することに
長久手合戦の直前、当時城の留守番をしていた丹羽氏次の弟の丹羽氏重は、「三河中入作戦」をたてた池田恒興軍の進軍を止めようと挑みかかり、池田恒興軍7000人が岩崎城に攻め込みました。これが「岩崎城の戦い」です。
城の守備隊はわずか300人余り、激しく抗戦しましたが丹羽氏重らほとんどが討ち死にしています
「表忠義」碑は、長久手合戦の際、岩崎城が徳川方の城として戦い全員討死したことを家康に対する忠義の表れを碑としたもので、題字は徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の書にななります
「二の丸庭園」跡地