本講座は、長久手市郷土史研究会による2025年度の歴史講座として、現瀬戸市山口の八幡社の丹羽宮司に、尾張東部地方の神社に戦国時代から長く奉納されてきた「警固祭り」のルーツや奉納の変遷について語られた講座の記録です。(撮影2025/06/15)
丹羽宮司は、平成16年から平成30年(2018)まで15年間を長久手市景行天皇社宮司も兼務され、瀬戸市、長久手市を含め尾張東部の祭事の歴史やその変遷に知悉され、本歴史講座のために「警固祭り」の始まりの資料やデータを収集され考察
長久手市の「警固祭り」とはどんな歴史をもつものなのか、なぜ多くの農民が「武術」をすることが奨励されたのか
これを機会に、長久手市、そして尾張東部に継承される「警固祭り」のことを一緒に学んでみましょう
「警固」とは、馬にのせた「標具」を守るための「警固隊」
「警固祭り」の始まりは、雨乞いのため熱田神宮への参拝
後に参拝は熱田神宮から、猿投神社へと変更
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猿投神社二の鳥居/猿投神社拝殿と四方殿
猿投神社棒の手は、天文23(1554)年に創始
岩崎城主の丹羽勘助氏次が棒術を奉納
以降、民間武術として発展
上郷・神明社前にて 2024/10/13撮影
上郷・神明社境内 / 多度社 / 神明社境内にて 2024/10/13撮影
上郷・多度社 2024/10/13撮影
有事の際の兵力として、農民に武術が奨励
警固の始まりの言い伝えとして、室町時代末期、猿投神社で兵乱で土地の権利が記された安堵状が紛失し、幕府から再び下された安堵状を道中警護するためだったと言います
その際に村人たちが棒や鎌などで武装して警護し、神前に無事を報告、そこで演技をしたことが神前での棒の手の演技になったとされます
その後、<有事の時の兵力>として、農民に武術が奨励されました
*字幕調整中
もう一つのルーツ:神代にまで遡る(竜泉寺合宿)
ヤマトタケル(日本武尊)の時代の古文書の記述
竜泉寺「幡龍」 尾張の画家 森村冝稲 作 / 竜泉寺