長久手市は、6世紀中頃「石作郷」(飛鳥・奈良時代、尾張国山田郡石作と呼ばれた)と呼称されていただけに、石工技術職人たちが長く活躍し、採石も行われていた土地です。今でこそほぼ忘却されていますが、1610年にはじまった徳川家康による公儀普請による名古屋城石垣造りにも、長久手から採石された巨石がその一部として用いられていました
採石された巨石の集積地であり採石地が、現在も直接見ることができます
「香流川猪鼻堰跡残石群」と呼称される場所で、色金山と岩作御嶽山の間をぬって流れる香流川の猪鼻堰下流です
近くに立ち寄る機会があれば今度のぞいてみてはいかがでしょう
「香流川猪鼻堰跡(いのはなせきあと)残石群」に現在も当時の残石の一部が露出しています
香流川猪鼻堰
色金山南東側を流れる香流川の猪鼻堰のすぐ下流の河岸に残石が集中しています
県道57号戦沿いで、色金山と岩作御嶽山の間を流れる香流川河岸なので歩道からのぞけばすぐに残石が河岸に露出しているのが分かります
西国大名20家によって築かれた名古屋城の石垣。天守台の石垣は、城づくり名人の加藤清正が担当
公儀普請による基礎の根石置きがはじまったのは1610年。石垣の石には各藩の「刻印」「刻紋」が刻まれている
最初の頃の石垣は、自然石をそのまま用いたような積み方の「野面積み」
名古屋城公儀普請で集められた石垣石材の採石地。尾張・美濃地域を中心に点在していました
「猪鼻堰跡残石群」の場所は長久手岩作。上地図を見ると、名古屋城から最も近いのが石仏の採石場で、距離的にその次に近かったことがわかります
またこれ以外に、紀伊、摂津、讃岐、肥前にも採石地があったとされています
出典:「長久手市猪鼻堰跡残石群調査報告書」
「尾張名所図会」中の「猪鼻堰」
「尾張名所図会 色嶺、御床机石、安昌寺」に、香流川を描いた頁があり、そこに「猪鼻堰」とある。そこでは「猪鼻堰」から水流が滝のように流れ降っている様が分かる
江戸時代からこの場所が「猪鼻堰」として名所図会にも描かれるほどだった
画像出典:「長久手市猪鼻堰跡残石群調査報告書」
石材調査から、この水域で採石される石は、主に花崗閃緑石(花崗岩と閃緑岩の中間的な性質の深成岩)とホルンフェルス(他、一部に砂石とチャート)で、花崗閃緑石は上流の北熊地区の「石場」(モリコロパークの南側)と、現在「長久手温泉ござらっせ」がある「湯の花」から多く切り出されていたとのこと
上流から切り出された花崗閃緑石は、「猪鼻堰」の少し下流域に集積された
ホルンフェルスは、この場所と色金山からも採石された(「長久手市猪鼻堰跡残石群調査報告書」より)
「猪鼻堰跡残石群」は、瀬戸市やモリコロパーク・ジブリパークに通じるバス通り県道57号戦脇の香流川にあります
岩作・御嶽山(高根山)入り口の高根橋の手前までの護岸が整備されるまでは、残石はここより150m近く下流域まであった
岩作・安昌寺、石作神社にも残石の記録
安昌寺南残石
切り出された残石は、猪鼻堰跡近くの岩作・安昌寺前の県道に沿った参道脇にもあったと記録されている(「長久手市猪鼻堰跡残石群調査報告書」)
写真は安昌寺。残石が一部用いられた可能性もある安昌寺手前の駐車場の石積み
石作神社残石
岩作・安昌寺から500m程西方にある由緒ある式内社・石作神社
かつてこの境内にも名古屋城石垣の残石があったと記録されている(「長久手市猪鼻堰跡残石群調査報告書」)
徳川家康が軍議で座した「床机石」のある色金山でも採石
長久手合戦当日(1584年4月9日)の朝、色金山に到着した家康が軍議の際に座ったとされる「床机石(しょうぎいし)」(別名:胡牀石(こしょういし)。信仰の対象としての磐座(いわくら)だっただろうと言われている
この巨石「床机石」は、「猪鼻堰跡残石群」で採石されていた巨石ホルンフェルスと同じ石種
色金山は江戸時代、色嶺と呼称され山の各所にホルンフェルスの巨石があったとされます
モリコロパーク南側の地名「石場」も採石場
「猪鼻堰跡残石群」のうち、花崗閃緑石は香流川上流の北熊の「石場」地区(モリコロパーク・ジブリパークの南側)で採石され、香流川に浮かべて猪鼻堰まで運んだとされます
江戸時代からあった「石場」という地名は現在に至るまでそのまま用いられています