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[長久手タイムズ]長久手の「魔界の入口」へ行ってみた

昭和晩期から平成時代にかけかつて長久手にあったアーティストやヒッピーたちのいわゆる”無法地帯”について、当時その中心人物だったKAZUYUKI MATSUMOTO氏(現在63歳)から話を伺った。
令和の長久手からはもはや遠い記憶ではある。が、体験を共有した者たちは市内外の各地に暮らしており、今でも彼らのスピリットは熾火のように燻り続けているようだ。

その場所は、長久手の小学校関係者の間で長らく「魔界の入口」と呼ばれていたという。愛知県立芸術大学へ向かう道筋の途中、農業試験場へと道が別れる三叉路近く、竹林の奥へと向かう落ち葉が積もった崩れかけた狭い道がある。錆びついた鉄製のゲートの向こう側だ。

小径を恐る恐る辿っていくと30mほどの左手に崩れた小屋が視界に入ってくる。地面から伸びる太い竹の間に何かの店の看板のようなものが。間違いない。このゾーンこそ、子供たちに決っして近付かないよう言われた場所だ。看板の言語はモンゴル語のようで、かつてここでモンゴル料理が作られていたらしい。小屋は手作りだという。

この木々が生い茂る森の中で、ここに15年もの間、ネコ一匹とともに(よくヒッピーが居候していた)暮らしていたK.MATSUMOTO氏は現在63歳になるが、MATSUMOTO氏は当時、長久手中学の同級生や県芸の生徒たちとBBQや大餅つき大会(30人参加)、演劇や個展、さらに山のライブという出し物、ネパール人の宴会などが頻繁に催されていたという。

つまりやり放題だった。当時の光景が蘇るかのように、ネパール風カレーやタイ風カレーの看板がぶら下がっていた。

友人が祭りをやりたいと言い出せばMASTUMOTO氏は出店でカレーを作って大カレーパーティと化し、50〜60人が集い、大音量で音楽が流され騒ぎたい放題で、ほぼ無法地帯と化していた。
地元の学校関係者が近付かないように生徒たちに諭していたのがよくわかる。

裏の山をステージに見立て、演劇やライブが一日中催された。出たり入ったりでのべ150人くらいが参加したり観客になったりしていたというからまさにアーティストやミュージシャン、演劇人、ヒッピーたちの梁山泊とも言える。

林の仲のこと、とにかく夏場の暮らしは大変だったらしく、いろんな虫に攻撃され、とりわけスズメバチに狙われ病院送りになっている。

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。

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