
上郷・北浦 溝之杁辺り
寺院は無いのに「権道寺」という地名だけが現在も残る
「徳川軍が権道寺山を通って進軍した」(『長久手合戦記』)
長久手の「幻の寺」権道寺。現在、権道寺の遺構はまったく残っていませんが、古えより(恐らくは戦国時代以前から)この土地一帯を「権道寺」として地元の人々に伝えられています。

「長久手合戦の略図」
(旧大草村地内に伝わる話)
合戦の当日、家康軍は瀬戸の本地村を午前4時頃通過し、「権道寺山」の麓を通り、日の出頃、色金山に到着
「小牧・長久手の戦い」(1584年)を記した『長久手合戦記』でも、徳川家康軍が瀬戸の本地方面から長久手の地へ入り色金山方面に向かった時「徳川軍が権道寺山を通って進軍した」という記述があります
またこの「略図」には、4月9日に当日10時頃に始まった「長久手合戦」後の午後2時頃に家康軍は「権道寺山」方面に移動し「首実験」を執り行ったことが記されています
略図:『長久手町史 資料編8』p388より
戦国時代には権道寺は跡形もなく、現在の長久手大草北部の北浦と瀬戸の菱野との境界の山を「権道寺山」と呼んでいたことが分かります(地元でのその通称は現在も続いている)。その一帯の地名は瀬戸の菱野側では、「字権道路」と呼ばれているとのこと

「権道寺伝説」
権道寺の焼失後、諸仏が地元上郷の3カ寺に祀られることに
地蔵菩薩が永見寺に、大日如来が宗延寺に、薬師如来が昌隆寺に祀られることになった
地元での伝承だけでなく、大草の曹洞宗寺院永見寺所蔵の「永見寺由来記」の中にも記されている
平安時代初期の859年から877年までの18年間を指し、清和天皇の治世を中心とした時代です。
写真:大草 永見寺
『香流川物語』小林元著にも「権道寺伝説」が紹介されています
権道寺焼失後、寺の諸仏が大草の埋古(うめりこ)に埋もれ、後年香流川の氾濫で流れ出した。埋もれていた地蔵菩薩が永見寺に、大日如来が宗延寺に、薬師如来が昌隆寺に伝えられたという」
権道寺が焼失廃墟になったのは平安時代初期の貞観時代(9世紀半ば)か
承久の乱の頃か、長久手合戦の頃という伝説も
一昨年のNHK大河ドラマ「北条殿の13人」の終盤、物語の大団円となったのが、木曽川を舞台にした「承久の乱」でした
「承久の乱」は、平安時代の初期の1221年(承久3)、幕府軍と朝廷軍が史上初めて戦った大合戦でした
美濃・尾張一帯を治めていた山田重忠(美濃源氏がルーツ)は、後鳥羽上皇に仕え朝廷軍として参戦。最後は比叡山の僧兵三千余騎を率いて奮戦しますが京都で自刃
瀬戸の山口八幡社は、山田重忠が1223年に創建したと伝わっています


上郷・北浦の郷土史家の中野十四夫氏から大草・永見寺の寺島住職に預けられた出土物の一部
権道寺の遺構があったのではないかと推定される辺りや周辺から多くの土器が発掘されています
出土物のなかには、古墳時代や奈良時代、平安時代の須恵器から江戸時代の瀬戸の陶工がつくった織部焼(江戸時代後期の瀬戸焼きの稀代の名工・加藤春岱-かとうしゅんたい- によるもの)と判明したものがあります(長久手市ちいき文化部生涯学習課山口さんの協力の元、公益財団法人瀬戸市文化振興財団から出土物の鑑定が行われました)
出土品の中では直接、中世の世の権道寺の在りし日の存在を明かすものはありませんでしたが、平安時代の須恵器の破片が出土したように暮らしの営みがあったことは分かっています

一説に権道寺には五重塔があったとも?!
「権道寺ノ後ハ大草村ノ西嶋ノ寺田ニアリ。古瓦ハ布目瓦ニテ、国分寺ノ時代ナリト云フ。
長久手合戦ノ頃ニ廃寺ニナリト伝説ニ云フ。
一説ニ五重ノ塔上頂ニアッタ金ノ鳩ガ埋リアリト云フ。
城下墓ノ五輪塔ノ頭ノ石モ此ノ寺ニアリシト云フ」『長久手町史 資料編8 p378』

地元の郷土史に造詣が深い大草・永見寺の寺嶌(てらしま)和尚からお話を伺う

永見寺にて権道寺がかつてあった北浦近くの岩廻間(いわばさま)から移されたと伝わる「小五郎松記念碑」
永見寺本尊の「地蔵菩薩立像」は長久手市最古の仏像とされています。「地蔵菩薩立像」は、「承久の乱」のころ消失したため権道寺にあった幾つもの寺仏が近隣諸寺に安置されるようになったと伝わっています


郷土史家・中野十四夫氏の原稿「権道寺の構図」冒頭部分
権道寺伝承:香流川から見つかった仏像が永見寺の御本尊に
「永見寺由来記」の中に、「夢の中に菩薩が夢枕に立ち、川辺を清めよ、そうすれば五穀豊穣の利益を授けよう」とのお告げがあったと記されています
その話を疑うことなく民が川辺に行きその泥の中から仏尊像を見つけます
それが永見寺の御本尊になったと伝えられています


香流川 / 権道寺山近くの県道沿いに祀られている御仏像

上郷・北浦 権道寺山より南側にあたる一帯