「小牧・長久手の戦い」に、なんと”双子とも言える戦い”があった?! しかも北関東に。そんな歴史や話は聞いたことがないぞ。
それもそのはずで近年、関東の大名たちの戦国時代の動向が研究され、「小牧・長久手の戦い」は「全国戦」の一環だったことがじょじょに分かってきたようです。
その研究者の一人が長久手市郷土史研究会の北山清昭会員(前会長)で、去る10月6日に歴史講座<「小牧・長久手の戦い」の引き金ー「沼尻の戦い」>が開催されました。今回その時の記録を2回に分けて内容の一部を掲載いたします。
「家康と秀吉はなぜ戦ったのか」 これまでの定説とは異なる史実がここに語られました。
歴史講座が開催された「長久手福祉の家」(建物の右半分は、「ござらっせ温泉」)
徳川家康が長久手合戦に向かう前、軍議の際に腰掛けたとされる床机石が山頂にある色金山からわずか500m東にある。
色金山の頂きにある徳川家康が腰掛けたとされる床机石/ 右写真:正面の小高い山が色金山(長久手福祉の家からすぐ西方に見える)
写真:北山清昭氏
現在建設中の古戦場公園のガイダンス施設(2006年春オープン予定)
長久手市郷土史研究会 吉村直彦会長の挨拶
講演が始まる直前のホール内
信長の死により家康と関東の大名たちの関係に変化
「本能寺の変」(1582年)から「小牧・長久手の戦い」(1984年)までの2年間の間に、関東で何が起こっていたの、どんな変化が生じていたのかに北川清昭和氏は注目し切り込んでいきます。
『大日本古文書 第三編」の史料にあたり家康や北関東の大名達との手紙のやり取りから、関東に激しく進出していく北条家に対抗する方策が探られています。
導入部として、「清洲会議」以降の体制の従来の捉え方が実態とは異なっていたことについて北山氏は語ります。
「沼尻の戦い」は、「関東版 小牧・長久手の戦い」とも呼ばれる
「沼尻の戦い」は、近年関東の領国経営を巡って秀吉、家康、北条の関与が明らかになるにつれ、「沼尻の戦い」が「小牧・長久手の戦い」と密接に関係していることが分かりだし注目され始めています。
「沼尻の戦い」は、「小牧・長久手の戦い」と「双子の戦争」であり、「関東版 小牧・長久手の戦い」とも呼ばれることがある。(北山清昭)
本講演前、長久手市郷土史研究会の多岐に渡る活動をまとめた動画が流されました。
講演会場がある福祉の家2階から北側に「大草城跡」を望む。
正面の森の頂きにかつて織田信長が森長可(鬼武蔵)に命じて大改築させた「大草城」(東西南北 250m×250m)があった。長久手合戦で秀吉勢の武将池田勝入、森長可が戦死した後、敗残兵約1,000人がこの大草城に幟を立てたて籠っています。
家康軍は大号令をかけて攻めますが防御に優れた「大草城」を攻略できず、緊急の知らせが入ったため犬山の楽田城へ向かったとされています。
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