「愛・地球博」の当初のメイン開催地だった「海上の森」のさらに奥にあるのが「海上(かいしょ)の里」です。長久手や瀬戸市の街中からものそれほど遠くはない東部丘陵のなかに、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような幻のような場所です。
前回のレポートで「海上の里」にあの武田信玄公の隠された墓があるという伝説がある「陶龍寺」界隈を巡ってみましたが、第2回目は「海上の森」「海上の里」の保全活動拠点になっている「里山サテライト かたリベの家」に少しばかり立ち寄った時のレポートです。
撮影は今年の1月上旬、まだお正月の気分が残っている頃のになります。「海上の里」が少しばかり華やいでいました。
尾張東部丘陵の奥深いゾーンへ。もう少しで海上の里です。
左手に見えるのが「里山サテライト かたりべの家」
昔の井戸がまだ使用可能とのこと。この一帯はとにかく水が澄んでいるとのことでした。
「里山サテライト かたりべの家」を訪れたのは今年1月初旬のこと。入り口には立派な門松が立っていました。
「かたりべの家」の建物は元は、瀬戸市赤津の地にあった旧鈴木角三郎邸を移築したもの(1918年にこの場所近くに)。
2003年に取り壊しの話が出た際に「海上古民家再生プロジェクト」が立ち上がり、「海上の森」の保全と活用の拠点「里山サテライト」として再移築されたものです。瓦が赤みがかているのは、赤津瓦葺きのためです。
「海上の森」の歴史的意味について
「海上の森」はなぜ「海の上の森」という名前になっているのでしょう。上に掲載した古い尾張国養老元年之図(奈良時代 西暦717年 「日本書籍」が完成したのはこの3年後のこと。猿投神社所蔵)をご覧ください。
地図のほぼ中央の右端に瀬戸、赤津、(長久手の中心ちの)岩作の地名が見えます。そのすぐ近くが入江になっています。かつて縄文時代に名古屋の地はほぼ海だったと言われてましたが、縄文海進で内陸までえぐられた海は、奈良時代までその名残りが確かにあったことがこの近くの猿投神社が所蔵してきた古地図からもみて取れます。
現在の名古屋の西部、南部一帯と、北部と北東部、東端一帯にまで東海の海になっていた。熱田神宮のある熱田は、半島の南端にあったことがこの古地図から手に取るようにわかります。
「海上の森」がある一帯は、1,300年程前、実際に広大な海へとつながる深い入江となっていたのです。そして海と直結するように猿投山へとつながる深い森が広がっていたのです。
「かたりべの家」では、海上の森や郷の歴史、自然などが語られています。海上の森の保全活動の学習の拠点であり、交流の場として語り合う場、そして海上の里に訪れた人たちが休息できる施設となっています。
武田信玄公の隠された墓だという陶龍寺の方へ。
関心のある方は下の関連記事「海上の里❶」よりチェックしてみてください。
「海上の里」地区に相当に古い多度神社があります。海上川の上流を渡って森の中へと入っていきます。
あらためてレポートする予定です。