現在、長久手古戦場公園の整備が着々と進められています。ガイダンス施設の建築は先週から屋根が取り付けられるまでになっています
今回、古戦場公園の南端にある「庄九郎塚」に至る小径が造られており、その現在進行形のレポートです
これまで長久手合戦で若くして討死した池田勝入の長男・池田庄九郎元助の「塚」は、「池田勝入塚」からかなり離れた雑木林の向こう側にぽつんあったため動線が弱く、古戦場公園に来園した方も足を運びずらい状態でした
今回の大規模整備で、国指定史跡でもある「庄九郎塚」に回遊しやすくなり、26歳で命を落とした池田庄九郎という武将を知ることによって長久手合戦の激戦がさらに感じ取れるようになるのではと思います
左手の石碑が「庄九郎塚」。これまで歴史資料館からは「庄九郎塚」は雑木林の向こう側の死角になっていたため訪れる人も疎らだった
この先を右に辿ると新築中のガイダンス施設へと回遊できるようになる計画
「庄九郎塚」から新築されるガイダンス施設とを結ぶ小径がつくられた。整備中
中央の大きな石碑は、1891年(明治24年)に建てられた明治の碑と言われている碑。 建立者は池田家の子孫、16世公爵池田輝博と旧臣の方々。
池田輝博は長久手合戦時、元助(庄九郎)の弟の輝政までもが戦場に出ると一家全滅するので戦場に出ることを厳しく諌められ、色金山の東方にあった大草城(森長可が整備)に籠もらされた。その後、池田家の家督を継ぎ大垣城主、岐阜城主となり後に初代播磨藩主となり姫路城を大規模改修、名古屋城も普請しています
あの真田一族が一族滅亡を回避するために家族が敵と味方に分かれるという戦法を池田家もとった。近年の研究では真田昌幸だけでなく、多くの大豪族や地方大名はそうした一族滅亡を避ける戦法をとっていたことがわかってきたという
池田庄九郎元助(元助は幼名)
1559または1564年生誕〜1584没
主君:織田信長→信雄→羽柴秀吉
信長が淡路国侵攻を命じたのは、秀吉とこの元助だった。1582年、甲州征伐に出征
秀吉の中国遠征でも明智光秀の与力として準備を進めていた最中に本能寺の変が起こる
紀伊守となった、元助は秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破る
大阪に移った父・勝入に代わり伊丹城主に
長久手合戦の前年の1583年、賤ヶ岳の戦いに参戦
岐阜城主となる
長久手合戦へ
(合戦で討死したのはまだ26歳だったと言われています)
池田庄九郎を討ち取った安藤直次は、後に徳川家康の側近となり、後に紀伊徳川家の家老職に付き、紀伊田辺藩(3万8000石)の城主となっています
大将の池田恒興は、家康軍に向かって長男の庄九郎元助を右翼に、婿の森長可(武蔵塚に落命)を左翼に陣を張って突進していった
古戦場公園内の雑木林が映える尾根を辿って庄九郎塚へと至る小径(今後この小径も整備)
古戦場公園はなるべく当時の地形を活かしているとのこと。長久手合戦の激戦場がいかに起伏にとんだ地形だったかも肌感覚で伝わってきます
池田勝入塚から尾根つたいに庄九郎塚へ
奥に見えるのはリニモの「古戦場公園駅」