本講座は、長久手市郷土史研究会による2025年度の歴史講座として、現瀬戸市山口の八幡社の丹羽宮司に、尾張東部地方の神社に戦国時代から長く奉納されてきた「警固祭り」のルーツや奉納の変遷について語られた講座の記録です。(撮影2025/06/15)
歴史講座の最後に、丹羽宮司は、警固祭りに市内各所で実演、発砲される火縄銃の歴史的背景について考察されました
火縄銃の所有は戦国末も江戸時代も刀狩りから普通は認められていません。鉄砲保有数の台帳には、長久手の村々の火縄銃の所有数はかなりの数にのぼっていたようですが、「所有数はゼロ」と記載され続けたとのことです
そこには長久手の戦いで勝利した徳川家康からの”感謝の意”が込められていたといいます
長久手合戦を前に、家康は色金山で軍議をひらいただけでなく、長久手の村々の農民にあるお願い(命令)をしていたとのことです
どんなお願い(命令)だったのか、丹羽宮司のお話を聞いてみましょう
火縄銃 長久手古戦場資料館
長久手古戦場資料館 /警固祭りでの火縄銃と角笠
徳川家康が長久手の村々に命令していたことがあった
「15歳〜60歳の男子は、刀や槍、弓、鉄砲を持参して出陣せよ!」
長久手城屋敷地区にある「長久手城跡」/「軍扇」長久手古戦場資料館
長久手城主・加藤忠景は岩崎城に丹羽氏重とともに籠城し落命
長久手合戦の直前、家康が長久手の村々に暮らす農民たちに発したこの命は、静岡大学の小和田哲男名誉教授のある講演会のテープを丹羽宮司が聞く機会があった中で確信したもの
戦国時代の当時、長久手城の城主は加藤忠景(1955〜58年頃から長久手城を居城としている)で、忠景は日進の岩崎城主の丹羽氏次の姉を妻とし、さらに忠景自身の娘を氏次の継室に嫁ぐがせていました(丹羽家とは二重に深い絆の親戚となっています)
そして忠景は織田信雄に仕えていたことからも、長久手の農民たちは徳川・織田勢の勢力下にありました
長久手合戦前、氏次は家康が設けていた小牧山の陣に参陣していたため、加藤忠景は岩崎城に父・氏次に代わって城を守護していた息子・丹羽氏重(16歳)と共に岩崎城に籠城。秀吉方の池田恒興軍と交戦し丹羽氏重と共に落命しています
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歴史講座「宮司が見つづけた警固祭り」より
静岡大学名誉教授で関ケ原古戦場記念館館長、またNKH大河ドラマの歴史考証を手がける小和田哲男氏による長久手合戦と、後の長久手の地に関する時代考証を丹羽宮司が小和田氏の講演記録から確認したもの
警固祭り(長湫 2023年秋)
火縄銃の発砲が住宅が建ち並ぶ街路であっても市内各所でおこなわれている
日本国内においてこうした火縄銃であっても、こうした市街地において「銃」の発砲が許可されることはまずない
天正16年(1588)の「刀狩り」後も、長久手の村々は(神事用として)
刀などの武器の保持が許された
江戸時代18世紀末、長久手村の「鉄砲保有数」は、110丁以上
それにも拘らず、「保有数ゼロ」として計上され
歴史講座「宮司が見つづけた警固祭り」より「近隣の村の鉄砲保有数」尾張徇行記調べ(寛政4年 1792年〜文政5年 1822年)
徳川家康が長久手の村々の農民にお願い(命令)していたこと
「15歳〜60歳の男子は、刀や槍、弓、鉄砲を持参して、ワイワイ騒いで欲しい!」
長久手合戦がはじまる前、総勢10万を超えていた秀吉軍に対して、家康と織田信雄軍は、1/3にも満たない約30.000の兵力だったと言われ、明らかに兵力が劣勢だったと言われています
そこで家康は長久手の地に暮らす農民たちに家にある金目のものや太鼓などなんでもいいから持ち出してワイワイ騒いで欲しいと頼んだそうです。そうすれば秀吉軍にはさも長久手の地に家康軍の大軍がいるように見えると
劣勢だった兵力だったにも拘らず、長久手の地のあちこちから鐘や太鼓の音が聞こえてきて、秀吉方にっとって兵力は実数より多く感じたのではないか。その後も長久手の農民たちが持っている鉄砲や刀については、勝ち戦の世話になったと、家康が大目に見ておけと伝えていたのではないか。これが小和田哲男教授による考察とのことです
色金山歴史公園
警固祭り(上郷 2024年秋)
歴史講座の会場「長久手福祉の家」会議室にて 2025年6月15日