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幕末から明治初期にあった長久手の寺子屋のこと。科目に「読書」が多かった【長久手タイムズ】

長久手東部エリアの上郷には「寺子屋」は5ヶ所で、すべて寺院でした。大草では現在も存在する「永見寺」と「三光院」で、私自身も小学生の時、「永見寺」で当時のご住職から習字を習いました。写真は「永見寺」の春。

大草の「永見寺」からの眺望。遠くにモリコロパークの大観覧車が見える。

東部・北熊の宗延寺。モリコロパークに一番近い北熊では、農業を生業とする近藤與兵衛が、宗延寺にて1848〜1865年の間、読書を教えていたと記録されている。

宗延寺は浄土真宗高田派

東部の大草にある三光院。ここでは修験道の指導者のご住職・井藤覚良が読書を教えた。寺子(学習する子供)の人数は延べで男子50名、女子5名だったといいます。

浅井沢助 – 農業を生業とした庄屋だった。幕末弘化元年(1844)から慶応2年(1866)の間、岩作・石田交差点の東方(西島)にて、寺子屋を開き読書や算術を教えていました。寺子の延べ人数は、長久手で2番目に多く、男子187名、女子13名だった。

浅井惣助 – 庄屋であり地域の世話役。安昌寺や教圓寺に絵画が残されている。長久手で2番目に早く岩作にて寺子屋を開く(文政12年 1829年〜安政4年1857年)。男子150名、女子9名に習字と算術を教えた。

浅井長政(画像はWikipediaより)は北近江の大名。継室は織田信長の妹・お市の方。
浅井長政は、織田信長と戦った「小谷城の戦い」(1573年)において、信長が使者として遣わした木下秀吉らの降伏を断り自害(享年29歳)。
浅井長政の一族(弟の1人)は、後の1584年長久手合戦後の慶長年間(1596年〜1615年)頃に岩作にて帰農し定住しはじめたと伝わっています。

岩作・安昌寺には浅井家元祖の碑が建立されています。

「長久手の寺子屋」(幕末から明治)は、『長久手村誌』が原典になっているが、『長久手村誌』もまた浅井長政一族の末裔の浅井菊壽が調べまとめあげたものである。

*「胡牀石(こしょういし)」会報第58号(令和3年9月発行)より転載

教圓寺風景

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。

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