長久手にもあった「寺子屋」についてレポートします。長久手にも明治政府が学校設立の方針を出す明治6年(1873)までは、江戸時代の1800年代初期から幕末に至るまで寺子屋がずいぶん盛んでした。
幕末期に、長久手村、岩作村、大草村、北熊村、前熊村(明治39年 1906年に合併し一つの長久手村に)に少なくとも15箇所の寺子屋があったと記録されています。「寺子屋」の僧侶や神官、士族や医師など地域の有識者たちが新たな草創期の「学校」の「教員」になっていきます。
長久手東部エリアの上郷には「寺子屋」は5ヶ所で、すべて寺院でした。大草では現在も存在する「永見寺」と「三光院」で、私自身も小学生の時、「永見寺」で当時のご住職から習字を習いました。写真は「永見寺」の春。
大草の「永見寺」からの眺望。遠くにモリコロパークの大観覧車が見える。
東部・北熊の宗延寺。モリコロパークに一番近い北熊では、農業を生業とする近藤與兵衛が、宗延寺にて1848〜1865年の間、読書を教えていたと記録されている。
宗延寺は浄土真宗高田派
*「胡牀石(こしょういし)」会報第58号(令和3年9月発行)より転載
寺子屋とは江戸時代後期に寺院や神社、個人の自宅(私塾)にて、地域の有識者が庶民の子弟教育の場として開設された学校のことです。有識者は、僧侶・神官・士族・医師が主で、藩校や私塾などで教育を受けていました。
科目に「読書」が多かったのは、江戸時代後期に庶民の間でも実用的で価値ある情報を得るため文字を学ぶことの必要性と重要性が高まったため、文字の習得の必要性が必須になっていました。そのため長久手の寺子屋も幕末期に急増しています。幕末には全国で15,000以上の寺子屋が存在したと言われています。
『長久手村史』などの資料や聞き取り調査から、当時の長久手には少なくとも15カ所の寺子屋があることが分かりました。「読書」のほか、「習字」と「算術」で、まさに「読み書きそろばん」が主に指導されていました。女子も教育を受けていたことが分かっています。
長久手で最も古い寺子屋は、文化十年(1813)に岩作村の医師の加藤米助で、習字と算術を教えていました。寺子屋が廃止されたのは明治6年、学校制度が制定されたためでした。最もその学校も教科書も校舎もないことも多く、初めのうちは寺子屋と変わらなかったそうです。
東部の大草にある三光院。ここでは修験道の指導者のご住職・井藤覚良が読書を教えた。寺子(学習する子供)の人数は延べで男子50名、女子5名だったといいます。
曹洞宗の寺院である岩作・安昌寺。後ろの森は、徳川家康が頂にある大きな石(机床石)に座って軍議を開いた色金山の森。色金山は『尾張名所図会』(江戸後期)にも描かれた名所。まとめられた「長久手市の寺子屋」には安昌寺の名前は出てこないが、「愛知県寺子屋一覧」にはしっかり名が出ています。安昌寺は、長久手合戦後に雲山和尚が、豊臣方、徳川方の敵味方関係なく捨て置かれた屍を集めて弔った寺院としてよく知られています。
浅井長政一族の末裔2人が、寺子屋を開き「読書」を教えていました。
浅井沢助 – 農業を生業とした庄屋だった。幕末弘化元年(1844)から慶応2年(1866)の間、岩作・石田交差点の東方(西島)にて、寺子屋を開き読書や算術を教えていました。寺子の延べ人数は、長久手で2番目に多く、男子187名、女子13名だった。
浅井惣助 – 庄屋であり地域の世話役。安昌寺や教圓寺に絵画が残されている。長久手で2番目に早く岩作にて寺子屋を開く(文政12年 1829年〜安政4年1857年)。男子150名、女子9名に習字と算術を教えた。
浅井長政(画像はWikipediaより)は北近江の大名。継室は織田信長の妹・お市の方。
浅井長政は、織田信長と戦った「小谷城の戦い」(1573年)において、信長が使者として遣わした木下秀吉らの降伏を断り自害(享年29歳)。
浅井長政の一族(弟の1人)は、後の1584年長久手合戦後の慶長年間(1596年〜1615年)頃に岩作にて帰農し定住しはじめたと伝わっています。
岩作・安昌寺には浅井家元祖の碑が建立されています。
「長久手の寺子屋」(幕末から明治)は、『長久手村誌』が原典になっているが、『長久手村誌』もまた浅井長政一族の末裔の浅井菊壽が調べまとめあげたものである。
*「胡牀石(こしょういし)」会報第58号(令和3年9月発行)より転載
令和3年度に郷土史研究会展示委員会の小林鑛一氏が、寺子屋の指導者の子孫への聞き取り調査を行っています。それらを元に約1年かけ長久手の「寺子屋」の歴史をまとめ、全17枚の手作りパネルによるパネル展が開催されました。
私自身も長久手福祉の家交流ストリートでの展示を実際見ることができました。
長久手市郷土史研究会が発行する会報「胡牀石(こしょういし)」にもパネル展の内容が掲載されています。
岩作にある浄土真宗高田派の教圓寺。ご住職が習字と読書を教えた。まさに幕末の1850年〜1865(慶応元年)の間に、延べ人数・男子約150名、女子12名が学んだと記録されている。
教圓寺は、色金山を立った徳川家康が戦さの必勝祈願で参内。合戦に勝利し、陣羽織が寄進されています。
教圓寺風景