「小牧・長久手の戦い」に、なんと”双子とも言える戦い”があった?! しかも北関東に。そんな歴史や話は聞いたことがないぞ。
それもそのはずで近年、関東の大名たちの戦国時代の動向が研究され、「小牧・長久手の戦い」は「全国戦」の一環だったことがじょじょに分かってきたようです。
その研究者の一人が長久手市郷土史研究会の北山清昭会員(前会長)で、去る10月6日に歴史講座<「小牧・長久手の戦い」の引き金ー「沼尻の戦い」>が開催されました。
今回その時の記録として2回目を一部ではありますが掲載いたします。
「家康と秀吉はなぜ戦ったのか」 これまでの定説とは異なる史実がここに語られました。
「小牧・長久手の戦い」の引き金ー「沼尻の戦い」の講演会場から徒歩で10分程にある色金山。その頂きにある色金山歴史公園の展望テラス。
頂きには陣を張った徳川家康が腰掛けながら軍議をひらいたとされる床机石がある。
👉北山清昭氏講演会の前回の続き
書籍『書簡に見る小牧・長久手の戦い』を手に掲げる北山清昭氏とその書籍の表紙
講演のレジメ「小牧・長久手の戦い」の引き金ー「沼尻の戦い」ー家康と秀吉は何故戦ったのか より(以下、同様)
「惣無事(そうぶじ)」とは
北関東では、豊臣秀吉が諸大名間の領土紛争を起こさせないための職権的な平和令としての「惣無事令」を発足する以前から戦国期の東国領主が使っていた方法。
関東「惣無事」は、秀吉による関東の「惣無事政策」を家康に委任されたかたちだった。そのため秀吉の「関東惣無事令」が発令される前に、北条をはじめとする関東諸大名間の紛争に介入して調停を行っていた。
連動していた「沼尻の戦い」と「小牧・長久手の戦い」
色金山の頂きにある徳川家康が腰掛け軍議を開いたとされる床机石
色金山に分け入ると一気に空気が変わります。
三十三体ほど確認ができる石仏は、安昌寺を第一番の霊場とする<城東西国三十三観音霊場>が、江戸後期に定められた頃に置かれた。元は麓の安昌寺境内にあったものが色金山の頂へと向かう小径脇へ移動された。
色金山の麓にある安昌寺。江戸後期に定められた<城東西国三十三観音霊場>の第一番霊場である。