長久手市のほぼ中央部の北寄りにある色金山。標高も僅かですが、頂上からは東部の里山ゾーンと西部の街並みを見晴るかすことができる戦にはうってつけの小山になっています。
麓には戦場に横たわる兵士の亡骸を敵味方関係なく葬ったと伝えられる浄土真宗高田派の安昌寺がある。この日は、長久手市郷土史研究会の中のグループの小さな集まりがあり、岩作地区の史跡10カ所程を見てまわった。
色金山の西側に駐車場があるがこの日は安昌寺を訪れた後で、臨時に安昌寺の西側に広がる墓石の間を抜け色金山に上っていった。
馬泉水(ばせんすい)広場。家康軍が休息する軍馬に水を飲ませた場所と言われています。木立が暑い日差しを遮り体感は5度以上低くなるほどで、人も馬も戦に向け体力・気力を回復させたのではないでしょうか。
整備された広場だとはいえ馬泉水の石も、また家康が座った床机石もまた想像以上に巨石である。奈良時代に創建されていた石作神社はこの色金山より西へ僅か500メートルほど。
かつて長久手一帯は、採石場がありどうも連綿と続く石の文化があった。馬泉水広場を見ているといろんな空想が駆け巡る。
頂上に向かう小道を辿るとすぐに新しい「碑文」があらわれます。
戦国時代の1584年(天正12年)、本能寺の変から2年後、羽柴秀吉軍と徳川家康軍の間で9カ月に渡って続くことになる「小牧・長久手の戦い」があり、4月9日に徳川・織田の連合軍が勝利。
1日の死者が3,000余人にのぼったとされています。
床机石広場へと続く道。「進軍のみち」とも言われる。現在は階段上に整備されましたが当時は土を固めただけだったに違いありません。
この道は間違いなく当時、軍議を終えた家康が進軍していった道で、500年以上の時を経て同じ道を辿っていることを思うと心も昂ります。
徳川家康が軍議の際に座ったとされる床机石。腰掛けるには余りにも巨石で、後ろに回って石の上に上って腰掛けたのではないかと想像される。