長久手の”アナザーワールド”、北海道・八雲町についての2回目のレポートです
八雲町は、函館と室蘭の中間にある広大な町で、長久手市(21.55km²)の45倍程の面積(956km²)があり、名古屋市(326km²0のよりも3倍ほどもある全国有数の面積を誇る自治体です
八雲の歴史は、旧尾張徳川家と深い繋がりがあり、後に長久手の初代村長となる吉田知行(ともつら)は、旧徳川藩の開拓団とリーダーとして原生林のなか踏査しています
徳川家による<集団移住>が、後の民間資本による組織的な北海道開拓の手本となり先駆けとなって、前田家、毛利家、鍋島家など旧士族の移住がはじまったといいます
初代村長をおりて後、移住先八雲の地で逝去した吉田知行の功績は極めて大きなものがありました
その八雲の地は、名古屋市の面積のなんと3倍もある広大な土地でした!
八雲町郷土資料館に展示される尾張徳川家の開拓の歴史

八雲町郷土資料館・木彫り熊の資料館
尾張徳川家のユーラップ(遊楽部)開拓の歴史とアイヌ文化と、自然・文化・歴史・遺跡を中心に民具などを通して学べる郷土資料館
1907年(明治40年)頃に焼かれた北海道では珍しい八雲焼という陶器についての展示もあります
北海道では珍しい陶器の八雲焼は瀬戸や常滑の焼き物の技術が背景にあるかもしれません
→八雲町資料館デジタルミュージアムへ
八雲は、北海道特産「木彫り熊」発祥の地
農閑期の副業としての土産物づくりは、
徳川慶勝公による発想
全国の”農村美術運動”の礎とな理、徳川農場に「農民美術研究所」も発足
記念すべき北海道の「木彫り熊」第1号は、八雲に移住した尾張藩士・伊藤政雄氏の作品だった
後に旭川にも木彫り熊の制作は広がりますが、八雲こそが木彫り熊の発祥の地とされてきたのはこうした背景があったため
木彫り熊には主に軽く柔らかく彫刻しやすいシナノキを中心に、イチイ(アイヌ語でオンコ)、クルミ、センノキなどが用いられたようです
開拓地の八雲も原生林が繁茂していたため、厳冬期になると伐採した木材を有効活用することにもまりました

左:徳川慶勝がスイスで見つけ日本に持ち帰った木彫り熊の民芸品
右:尾張藩士・伊藤政雄がスイスの木彫り熊を参考に制作した木彫り熊作品
木彫り熊資料館にて展示
画像:朝日新聞「2024年8月29日」スイスからやってきた木彫り熊 殿様と住民の思いつながった100年 記事より引用

我が家にもある木彫りの熊
昭和の世に北海道に旅行に行った人は必ずといっていいほど木彫りの熊を時北海道土産に購入していました
ちなみに八雲の熊は柔和な顔つきの表情で、旭川の熊は荒々しい表情の野生の熊とのこと
誕生100周年を迎えた木彫り熊は大ブームになっていた!

農村美術として多彩な「熊彫」作品が生まれました
ポスターの熊彫は、まさに円空の木彫り仏像を彷彿とさせる見事な熊彫です
右上の肖像写真は、第19代尾張徳川家当主の徳川義親公
2023年、名古屋の徳川美術館のミュージアムショップでも八雲の木彫り熊が大々的に販売されました
「朝日新聞」記事より-徳川美術館の八雲の木彫り熊グッズ

2024年、八雲の木彫り熊誕生100周年を記念したトークショーや記念展覧会も開催
流行の発信地でもあるあのBEAMS JAPANでも注目されました
トークショーはビームスジャパン京都で開催
旧尾張藩士による「徳川農場」
明治時代から「酪農」の歴史がある八雲
八雲町が北海道の「近代酪農発祥の地」となった理由
明治11年(1878)にユーラップ(遊楽部)川下流域の原野に設けられたのが「徳川農場」で、徳川家開墾試験場が設けられています。旧尾張名古屋藩士の移住は明治25年頃まで続きその間に西洋農法が実験的にすすめられ家畜が盛んに導入され、牛馬を使って耕作、米作・畑作を行っていきます
明治40年(1907)からバターを生産してきた八雲町は、北海道近代酪農発祥の地としても知られています
第二次世界大戦後は、八雲の若者は最先端のバター製法を学びにデンマークに赴いています
1992(平成4)年には、八雲の酪農家のお母さんたちが集まり「八雲ハンドメイドの会」を結成。本格的なチーズの製造販売を開始し、手づくりチーズのおいしさや八雲の酪農について広める活動をしています


徳川農場 画像:「北海道開拓倶楽部」サイトより引用

八雲に移住した尾張の旧士族たち 画像:「北海道開拓倶楽部」サイトより引用
【チャンネル桜北海道】
15分30秒後から「尾張藩主による開拓事業と八雲で生まれた木彫り熊」院ついての特集です
→「徳川慶勝撮影写真帖」写真に関心が深く自身も数多くの写真を撮った慶勝撮影の名古屋城の展覧会ポスター
熱田神宮が全国で唯一分社された「八雲神社」
明治10年から旧尾張藩徳川慶勝公が、ユーラップ(遊楽部)川流域に地を定め、<理想郷>を建設するための開拓事業に着手
その7年後、八雲神社は移住者たちの精神的拠り所として社殿が建設され、明治20年、故郷である「熱田神宮」に御分霊願が出願、正式に許可され、八雲神社は全国で唯一の熱田神宮の「分社」となりました
熱田神宮の異例の「分社」にあたっては明治天皇の特別の御計らいによるものと伝えられているとのこと
昭和9年、徳川慶勝公は八雲神社に合祀されました


八雲神社と尾張藩士たち 画像:「北海道開拓倶楽部」サイトより引用

画像:八雲町ホームページより引用
1885年、長久手出身の21歳の戸田鉷四郎が著した『北海道往復旅行日記』のこと
全国的にも極めて珍しく貴重な北海道旅日記となっている
幕末から明治初期にかけての北海道(蝦夷)道中日記は以下の様に14程纏められているとのこと
その全てが蝦夷地調査・現地調査のため開拓御用係や藩から派遣された藩士が公的な報告書として土地の広さ、地質、地形、戸数など現地情報を客観的に纏めているものです
戸田鉷四郎は元士族ではありましたが、後ろ盾がある訳なく一般人の個人的な旅の日記で、書名にも『北海道往復旅行日記』と「旅行日記」であることが明言されています。故に北海道の自然景観や海辺の美しさを挿絵にして残すこともできた訳です

『北海道往復旅行日記』戸田鉷四郎著(原本)
明治18年、1885年に半年かけて旅をした『北海道往復旅行日記』の原本。
本に纏められた明治18年という年は、まだ長久手は幾つかの村に分かれていた時代
戸田鉷四郎氏は現在の大草の出身で、当時は北熊村と大草村が合併した後の熊張村に生まれています
戸田鉷四郎(きょうしろう)氏は尾張藩士であった平川家(名古屋城下にあった)の四男として生まれ、明治維新後に日進の藤島に移住、そして17歳の時に熊張村(長久手)の戸田家へ養子に入っています
この原本は現在、戸田鉷四郎氏の子孫の方から市内某研究所研究員で郷土史研究家でもある町田悟氏の元に保管を依頼されています
戸田鉷四郎は元士族の家系ではありましたが、後ろ盾がある訳なく一般人の個人的な旅の日記でした
書名にも『北海道往復旅行日記』と「旅行日記」であることが明言されています
公的な調査資料でないため、北海道の自然景観や海辺の美しさを自由に挿絵にして残すこともできた訳です

『明治のワンダージャーニー 北海道往復旅行日記の世界』町田悟著
明治18年に戸田鉷四郎氏が著した『北海道往復旅行日記』を歴史伝承学研究所の町田悟氏がリヴァイバルした書籍
幕末から明治初期にかけての北海道(蝦夷)道中日記は歴史上14程纏められている
その全てが蝦夷地調査・現地調査のため開拓御用係や藩から派遣された藩士が公的な報告書として土地の広さ、地質、地形、戸数など現地情報を客観的に纏めているものとなっており、戸田鉷四郎の旅日記がいかに特異な存在かわかります

『北海道往復旅行日記』の原本(生原稿)より
戸田鉷四郎(きょうしろう)氏が手書きで描いた絵地図
右上に北海道駒ヶ岳、中央部分が八雲の地にあたっている

小樽港の海岸 汽車のトンネルの景
なぜ戸田鉷四郎が北海道を目指したのか。それは鉷四郎のすぐ上の兄の平川勇記(鍋三郎)が、20歳で同志と共に徳川開墾地となった八雲の地に移住していたためだった

長久手郷土史研究会・会報「胡牀石」
「胡牀石」誌上にて、「翻刻『北海道往復旅行日記』町田悟」が連載されています
『長久手町史』(資料篇八 近・現代)にも掲載
八雲に入植していた著者・戸田鉷四郎の兄を訪ねる旅だった

左ページの絵図は、七里ヶ浜 右は江ノ島
戸田鉷四郎の北海道への旅は、長久手から始まり、東海道を徒歩で旅する様子も当時の記録として秀逸である
郷土史の枠を超えた躍動感が伝わってくる明治初期の貴重な資料でもある

当時若干21歳の戸田鉷四郎であったが、その動植物や地誌に至る博物学的な関心は絵となってあらわされています