秋深まる11月下旬、整備工事中の古戦場公園の秋を感じに訪れてみました
来年4月の開館に向け、古戦場記念館の建物じたいや新たな回遊道の設置・整備もかなりすすんできました
新旧の姿が秋の紅葉を背景に混じり合い、新たな秋の空気を生み出しているようです(撮影は11月下旬)
裏手では古民家(長久手市ふるさと館)の建設もはじまっており、2025年はすべてが変化の真っ只中にある、そんな古戦場公園です


池田庄九郎元助(元助は幼名)
1559または1564年生誕〜1584没
主君:織田信長→信雄→羽柴秀吉
信長が淡路国侵攻を命じたのは、秀吉とこの元助だった。1582年、甲州征伐に出征
秀吉の中国遠征でも明智光秀の与力として準備を進めていた最中に本能寺の変が起こる
紀伊守となった元助は秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破る
大阪に移った父・勝入に代わり伊丹城主に
画像・wikipediaより引用
池田庄九郎元助は、合戦時、若き岐阜城城主だった

金華山の頂に建つ岐阜城
池田庄九郎元助は、長久手合戦の前年の1583年、織田信雄に属して秀吉の味方となり賤ヶ岳の戦いに参戦
父・池田恒興は美濃大垣城の城主に、息子の庄九郎元助は岐阜城主となっていた
長久手合戦へ
(合戦で討死したのはまだ26歳だったと言われています。20代前半だったとも)
画像・wikipediaより引用

国指定史跡の庄九郎塚
池田元助(庄九郎)は、長久手合戦の日となった1584年4月9日。岡崎奇襲(中入り)をかけるため早朝に出陣
庄九郎の部隊と、義理の兄である鬼武蔵の森長可隊が岩崎城を通り抜けようとした時に交戦に(岩崎城の戦い)
岩崎城を落城させた直後、長久手の仏が根に引き返し家康隊との合戦に突入していき、この場所で落命
江戸中期明和8年(1771年)、尾張藩士人見彌右右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際に明和の碑を建てています

表通りから「庄九郎塚」(国指定史跡)へ直接辿る園路(Garden Path)ができ、園内を気軽に散策できる機会もぐんと増えていくに違いありません

新たに園道がめぐらされ、合戦の激戦地だった尾根や丘陵を歩いて肌で体感することが
現在、建設中の古民家は「長久手市ふるさと館」と命名されるようです
「園内地図」には現在ある古戦場資料館はないので近い将来取り壊されることに
資料館に所蔵されている貴重な武具なども新たな古戦場記念館に移される予定のようです
「古戦場」の国指定史跡は数ある古戦場の中、全国で3カ所のみ
長久手古戦場、関ヶ原古戦場、桶狭間古戦場伝説地


園内を回遊する園道(garden path)が設けられています。以前は中央の石碑後方に小径はありませんでした

以前は無かったアプローチ園路から古戦場記念館へと向かう

現在の古戦場記念館の様子(公園内側より)
江戸後期に「小牧・長久手の戦い」を「関ヶ原の戦い」より高く評価していた歴史家・頼山陽は著書『日本外史』の中でこう述べた
家康が直接対決で秀吉に負けなかったこと、その後の豊臣政権下でも秀吉に屈服していなかったことが秀吉死後、家康の政権奪取が可能になった事実の重さ

2025年11月30日をもって閉室した長久手市郷土資料室
1985年開室なので40年間の歴史に幕を閉じました
展示・保管武具や資料は新しくできる古戦場記念館に移るとのことです

かつて「御旗山」「仏ケ根」「桧ケ根」など合戦場がイメージされた縮景の造山があった場所
芝生広場になっていますがこれから春に向け整備されていくようです

園内につづく小丘陵に新たに設けられた園路(記録では昭和の時代にも園路は設けられていたとのことですが半世紀にわたる時の経過とともに小径は自然と消失していったようです)
合戦当時の尾根や小丘陵の地形が保全されてきた
樹木は江戸中期まで松林で、以降雑木林と混在するように
長久手の丘陵地の植生は、中世から窯業燃料として利用価値の高い松が丘陵を覆っていたといいます。ただ松林は保水力が弱く、田畑にも悪影響(土地が痩せるなど)が多く、江戸中期の明和年間(1764-1772)以降、松林から雑木林への転換が図られたとのこと
また太平右葉戦争に伴う人為的伐採と伊勢湾台風の打撃から人為的に植生したエリアも多いようである。
その後、古戦場一帯も含め、色金山、御旗山はケネササとコナラが群集となって植生が形成された歴史がある




古戦場記念館から庄九郎塚へ向かう園路

左手に池田勝入塚。郷土資料室から古民家がある「長久手市ふるさと館」への路が整備されている