大河ドラマ「どうする家康」第32回(8月20日放送)「小牧長久手の激闘」で、家康本軍と秀吉の猛将が激戦した主戦場跡地として知られています。「国の史跡」に指定、現在「長久手古戦場公園」になっています。公園は、主戦場の地が「縮景」の手法で形作られており、市内各所に散らばる古戦場史跡をイメージすることができます。
上空から見ると古戦場公園が、「長久手合戦」が繰り広げられた主戦場の<地形>を「縮景」の手法で、パノラマ的に表現されている。小高い丘の麓を左右に流れるようにつくられているのが「香流川」だ。ピンクの椿が咲いている所が主戦場「仏ケ根」(古戦場公園からつながった北側一帯)。中央の小山の右半分の丘が合戦時に家康本陣がおかれた御旗山。その小山の間を遊歩できるような設計になっているが、現在の古戦場通りや県道名古屋長久手線(昔からのバス通り)を表現していよう。
写真左端近く(青色の屋根の先)に大きな石が置かれてあるのが、色金山山頂で家康が陣を張り、腰を掛け軍議を開いたと言われている大岩「床机石」に見立てられている。
白い建物が長久手郷土資料室。その右方に史跡長久手古戦場の石碑。
「勝入塚」。この地で討死した秀吉方の武将、犬山城主でもあった池田勝入(恒興)の供養塚。勝入は織田信長の乳兄弟で幼少期から信長に小姓として仕えていました。合戦中、勝入は鞍に銃弾を受け落馬。徳川軍の永井直勝に槍で討ち取られました。勝入の次男・輝政は、後の関ヶ原の戦いでは家康側につき、後に家康公に厚遇され初代姫路藩主となり、「姫路城」を大規模改修した。姫路城とカタチも規模もそっくりな「江戸城」を普請(1606年)、4年後(1610年)には名古屋城も普請している。
古戦場公園のすぐ近くに建つAEON長久手店の屋上駐車場からの風景。黒い部分が古戦場公園であるが、右方の住宅地も含めた一帯が合戦の主戦場になった「仏ケ根」である。中央奥に見えるのが国指定史跡の「御旗山(みはたやま)。色金山に進軍していた家康は大岩に腰掛け思案、秀吉勢を分断するためこの御旗山の頂上に金扇の馬標を立て、秀吉勢を牽制。秀吉方・堀秀政は形勢不利と悟り、池田勝入・森長可勢からの援軍要請を無視するかたちで撤退してしまいました。この「分断策」が、長久手合戦を家康軍の勝利に導いたと言われています。
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