城郭の周囲の水田地帯から30mの高さの丘陵の頂きに構築された大草城。守備力を強化するために帯状に造られた帯曲輪(くるわ)と土塁が見られます。日本の城郭に取り入れられた構造物のひとつ。
北側から城跡地を望む。下に掲げたイメージマップでは帯曲輪(くるわ)に相当する場所。左手に道沿いに住宅と店舗が建っています。
大草城跡を北西側からみると主郭に至るまでの地形の様子が分かります。下のイメージマップ上の西郭群と土塁部分に相当。
引用元:長久手郷土史研究会の資料より。ホームページはこちらへ
大草城は、戦国時代より遥か昔、中世の「承久の乱」(1221年)で焼き払われて300年以上廃城と化していたが、織田信長に仕えていた美濃・兼山城主だった森長可(長久手合戦で落命した鬼武蔵)が信長から長久手東の上郷一帯を差配され(領地を与え)廃城を大改築したもの(1579年)。長久手東部は西三河とまさに接っする土地であったため徳川方に対する防御策の一環だった。
大草城の広さは東西・南北ともに約250m。岩作城が約70m×90mだったことからもかなりの規模だったと推測されています。
森長可は上郷の豪族福岡新助を城代として兼山城に戻っています。その5年後に「小牧・長久手の戦い」となり、秀吉勢の城郭として合戦後ではあったものの機能しました。森長可と池田恒興の首を取られた後、秀吉方の落武者約1千人が大草城に幟をはためかせて立て篭もり家康軍と対峙。
家康は大草城攻撃を命じたものの城の守りは頑強で攻めあぐんでいるなか、秀吉の軍勢の進撃の情報を受け大草城攻めを中止し小幡城へと引き上げたと伝えられています(大草三光院本山寺録)。
合戦後、落武者の中でこの大草の地に留まって帰農し暮らした者も多く出たとのこと。大草で多い姓、戸田、中野、加藤、鈴木はこの地に居着いた者の姓と伝えられています(大草三光院本山寺録)。
森武蔵守長可の所領となる16年前には、岩崎城の丹羽氏の所領だった
大草城主郭からほど近いところは、J R東海の新社長丹羽俊介氏が生まれ育った場所でした。
戦国時代に大草城一帯を所領とした丹羽氏(おそらく三代岩崎城主丹羽氏勝)一族の末裔ではないかと推測してしまいます(私見)。
中世の13世紀、尾張国東部に存在していた「山田郡(やまだのこおり)」
山田郡・山田荘(13世紀)のエリア 引用元:「ホーム守山 中世のページ」
名古屋の北部か・東部から尾張旭、瀬戸、長久手、日進、東郷(の一部)一帯に広がっていた山田郡は、戦国時代に廃止され、「愛知郡」と「春日井郡」に分割されます。尚、山田郡は古代7世紀にこの地に置かれた「山田評」があり、大宝律令の制定(701年)に伴い「山田評」が「山田郡」となって成立。「山田郡」には東大寺領の荘園となっていた「山田荘」という荘園が存在していた。
大草城は、「承久の乱」(1221年)で知られる後鳥羽上皇側についた山田重忠の所領・山田荘に属する城塞・居館だったため、鎌倉武家政権(北条義時)に敗れた山田重忠の城塞・居館は、大草城も含めすべて焼け落とされた。
この写真も、大草城跡を北西側から見た光景です。上の城跡地をイメージした地図では、西郭群と土塁部分に相当。
大草城は東西・南北ともに約250m。岩作城が約70m×90mだったことからもかなりの規模だったと推測されています。
本書の中で、岩崎城歴史記念館学芸員の著者の内貴健太氏は、大草城が2ページ+ アルファの計5点の写真によって、長久手市内の城跡の中でも最も大きくフィーチャー。
その理由として、「昨今、変容が著しい長久手市内に、こんなにも遺構が良好に残り、戦国時代の面影が漂う城は珍しい」と内貴氏は記しています。
城下墓と大草児童公園の間の竹藪脇の小径を少し分け入ると空掘があり、土塁横に出る。そこから前方を見上げる。
『小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』の中で、内貴健太氏は、大草城について次のように語っています。
「しかし、これほどの規模を誇る城でありながら、史料には一切出てこず、地誌類には『尾張史』しか大草城の名を留めていない。これは私の推測であるが、家康が大草城を攻略できなかった事実を隠すため、大草城の存在が徳川家に抹消されたのではないか、そんな風に考えてします」と。
主郭があったであろう場所から南東方面の里山地区が眺望できます。モリコロパーク・ジブリパークがある丘陵が左手奥に見えます。
主郭のある丘陵の頂きの標高は150m程で、西南郭から色金山や岩作御嶽山、その間から伊吹・鈴鹿山系や名古屋の高層ビル群が垣間見えます。
また北側には、晴れた日には白山連峰を遠望することができます。
西南郭に咲く桜。大草の交差点や香流川遊歩道からも見ることができます。
現在、私有地にて入ることはできませんが、今後、上郷プロジェクトの一環として、2025年度より桜の季節には西南郭に上って頂けるようにしたく思います。
主郭があった場所から東方、熊野神社がある森方面
左手の主郭のあった右手には、土塁が長く築かれています。
再び北側からの眺望
Very interesting info!Perfect just what I was searching
for!Blog money