色金山歴史公演にある茶室「胡牀庵(こしょうあん)」は、織田信長の実弟である大茶匠・織田有楽斎が手がけた国宝茶室「如庵(じょあん)」を模した「庵」。去る1月10日の雪の日に誘われるように「胡牀庵」を訪ねた時の記録です
「小牧・長久手の戦い」(1584年)で、織田信雄と共に行動していた織田有楽斎(長益 ながます)は、徳川家康軍が小牧山城を出陣した際に、小幡山城(名古屋守山)を通って色金山へと進軍しています。よってこの色金山の頂きにある「胡牀石」に座して軍議をする家康を見ていたはずです。
<真の天下分け目>の戦いを前に、織田有楽斎は家康や信雄らとともにお茶を一服飲んだのではと思います。そして合戦後、織田有楽斎は秀吉との交渉役を担っていくことになります
そんな歴史の一コマを感じながら、茶室「胡牀庵」で抹茶をいただいてみてはいかがでしょう
色金山歴史公園
茶室・「胡牀庵」へ
茶室「胡牀庵」は現在犬山市にある「如庵」を精巧に模した「庵」です
「如庵」は、茶道文化史上貴重な遺構とされ、京都山崎妙喜庵内の「待庵(たいあん)」(千利休作とされる唯一の茶室)、京都大徳寺龍光院内の「密庵(みったん)」(小堀遠州作)とともに、国宝茶席三名席のひとつ
戦前は10棟以上国宝の茶室があったとのことですが、現在はこの3棟のみが「国宝茶室」に指定されています
「待庵」は一ヶ月前に往復ハガキでの予約、にじり口から内部を覗くだけで、「密庵」はにじり口から内部に入ることはできず見るのが一番難しい国宝とも言われています
よって長久手市にある「胡牀庵(こしょうあん)」の見学、及びお茶会(原則として茶道の利用に限られます)では、とても貴重な体験を享受することができます
*詳細は長久手市ホームページ(茶室管理棟)にてご確認ください。予約要
*見学のみの場合、当日お茶会もなく、見学への対応が可能な場合に限って案内頂けるとのこと
庭園の敷石を辿って色金山の麓に近い「胡牀庵」の方へ
この写真の奥の色金山を200mほど上った頂きに、長久手合戦の時、徳川家康が腰をおろして軍議を開いたと伝わる巨石の「胡牀石」があります
範をとった犬山市の国宝茶室「如庵(じょあん)」の名称は、織田有楽斎のクリスチチャンネームである「Joan」、または「Johan」から付けられたと言われている
この茶室「胡牀庵(こしょうあん)」は、大茶匠・織田有楽斎が手がけた国宝茶室「如庵(じょあん)」を模した「庵」
「有楽庵」は、犬山市に移築される前の約400年間、京都・建仁寺にあった
「如庵」は、1972年に京都建仁寺から犬山へ移築されました
江戸時代から昭和まで、400年以上にわたって「如庵」が存在していた建仁寺とはどんな寺院か確認しておきましょう
建仁寺は京都五山の寺院で、京都初の禅寺(臨済宗の大本山 栄西禅師が創建、安国寺恵瓊が再興)として知られています
枯山水庭園、「風神雷神図屏風」天井画「双龍図」が有名
画像:建仁寺サイト公開データより
建仁寺にある国宝「風神雷神図屏風」(俵屋宗達)
画像:建仁寺 wikipedeiaより
建仁寺は京都で最初の禅寺・法堂にある天井画「双龍図」(水墨画)
画像:建仁寺サイト公開データより
織田有楽斎(長益 ながます)1547~1622没
戦国の織田信長の実弟(13歳下 信長の12人の息子のうちの一人)。
大名であり茶人。茶道草創期の茶人。千利休に茶道を学ぶ(利休十哲の一人)。大茶匠である
後に茶道有楽流を創始信長の傅役(かしずきやく:お守役)で教養や文化に長けた平手政秀が長益の傅役だったと言われている
軍馬から落ちて怪我をしてからは、出陣しても前線に出ることはなく、交渉役や文化交流、教育係の役目を担う
主君の変遷:織田信忠→信雄→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
「如庵」が創建された京都建仁寺の正伝院を再建
画像:織田有楽斎Wikipediaより 正伝永源院蔵
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では、織田有楽斎(織田長益)は織田信雄(のぶかつ)と行動を共に。
長久手合戦で家康勝利の後、突然、織田信雄は豊臣秀吉と和睦。そのとき織田有楽斎(長益)が傍にいたと言われています。
実際、徳川家と豊臣家の間で和睦交渉役を担っています。主君は豊臣秀吉となり豊臣の姓(かばね)を授かっています。後に家康が主君となります。波乱に富んだ人生でしたが織田信雄と同様、70歳以上まで生き長命でした
長久手合戦では、織田有楽斎(長益)も、徳川家康、織田信雄らと共に色金山に布陣
色金山歴史公演の頂上。徳川家康が座って軍議を開いた「胡牀石」が見えます 2024年1月10日撮影
徳川家康と共に行動していた織田信雄、織田長益(有楽斎)は、小牧山城を出陣し、小幡城(名古屋守山区)を通り、色金山へと進軍しました
「胡牀庵」へ
「胡牀庵」内部へ