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若き岐阜城城主・池田元助が落命した場所「庄九郎塚」(国指定史跡)へ巡る園路/合戦当時の尾根や小丘陵の地形が保全されてきた【Nagakute Times】

表通りから「庄九郎塚」(国指定史跡)へ直接辿る園路(Garden Path)ができ、園内を気軽に散策できる機会もぐんと増えていくに違いありません

新たに園道がめぐらされ、合戦の激戦地だった尾根や丘陵を歩いて肌で体感することが
現在、建設中の古民家は「長久手市ふるさと館」と命名されるようです
「園内地図」には現在ある古戦場資料館はないので近い将来取り壊されることに
資料館に所蔵されている貴重な武具なども新たな古戦場記念館に移される予定のようです

園内を回遊する園道(garden path)が設けられています。以前は中央の石碑後方に小径はありませんでした

以前は無かったアプローチ園路から古戦場記念館へと向かう

現在の古戦場記念館の様子(公園内側より)

かつて「御旗山」「仏ケ根」「桧ケ根」など合戦場がイメージされた縮景の造山があった場所
芝生広場になっていますがこれから春に向け整備されていくようです

園内につづく小丘陵に新たに設けられた園路(記録では昭和の時代にも園路は設けられていたとのことですが半世紀にわたる時の経過とともに小径は自然と消失していったようです)

長久手の丘陵地の植生は、中世から窯業燃料として利用価値の高い松が丘陵を覆っていたといいます。ただ松林は保水力が弱く、田畑にも悪影響(土地が痩せるなど)が多く、江戸中期の明和年間(1764-1772)以降、松林から雑木林への転換が図られたとのこと
また太平右葉戦争に伴う人為的伐採と伊勢湾台風の打撃から人為的に植生したエリアも多いようである。
その後、古戦場一帯も含め、色金山、御旗山はケネササとコナラが群集となって植生が形成された歴史がある

古戦場記念館から庄九郎塚へ向かう園路

左手に池田勝入塚。郷土資料室から古民家がある「長久手市ふるさと館」への路が整備されている

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com

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