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「長久手城主・加藤忠景と岩崎城の戦い」歴史講座❶/講師 内貴健太氏:主催 社団法人 長久手市郷土史研究会/ 令和7年10日5日開催 記録【Nagakute Times】

日進・岩崎城  長久手城主・加藤忠景は「長久手合戦」の日、岩崎城の戦いで落命

一般社団法人長久手市郷土史研究会・司会の羽生田正勝氏、吉村直彦代表理事の挨拶

内貴健太氏(NAIKI KENTA)
岩崎城歴史記念館学芸員

専門・研究:小牧・長久手の戦いの伝承など

中日文化センター講師 / 日本城廓検定1級 /
著書『小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』(風媒社)
新著『小牧・長久手合戦図鑑』
執筆中『丹羽兄弟』2026年春刊行予定

歴史講座参加者 約100名 会場:長久手市公民館(西庁舎3階)

長久手合戦当時、現存していた長久手城の城跡(現、長湫城屋敷内)

長久手城の築城年代は不明であるものの、戦国時代より遡る室町時代(1336〜1573年)中期の永享年間(1429〜41)には左近太郎家忠と左衛門次郎国守、享禄年間(1528〜32)には斎藤平左衛門が在城したと伝わっています(『尾張志』)
この後にどこかの段階で加藤氏の居城となったとのこと

加藤忠景氏のルーツは、瀬戸市にあった馬ケ城(鎌倉時代〜築城年不明。城主は代々加藤太郎左衛門を名乗ったとされる)だったとこれまで歴史資料に記されまた語られてきました。現在、土塁跡もあったと記録されている馬ケ城は馬ケ城上水場となっており、浄水場であるため柵の中に立ち入ることはできないとのこと

織田信長が瀬戸の品野城を攻めた弘治年間(1555〜8年頃)に、加藤太郎左衛門は長久手に逃れ、馬ケ城は廃城となったとされます
ただし『長久手町史 本文編』(長久手町史編纂委員会編集 平成15年刊)では、弘治2年(1556年)以降、加藤太郎右衛門忠景が旧城を修築したとだけ記され、長久手に退却しにわかに長久手城城主となったといわれる馬ケ城主・加藤太郎左衛門の名はでてきません

藤森城より少し南方の高針にあった高針城(現、高針5丁目)は、この地域に一大勢力をもっていた土豪・加藤勘三郎(代々この名を名乗った)の居城とされます。尾張藩士系譜系図家系家紋集の『士林泝洄』にある加藤氏系図には、加藤忠景の父・三右衛門は高針村に居住していたとの記述があるとのこと。となれば長久手城主・加藤忠景のルーツは瀬戸ではなく、高針界隈(現・名東区)の可能性も考えられます

現在高針城は現存せず、現在は小高い畑地で堀の一部が残っているのみ。場所は牧野池から北方へ徒歩5分ほど高針公園近く
また上社城主だった加藤勘三郎(代々この名を受け継ぐ)は、上社城から1467年に高針城に移ったという記録があります

長久手市城屋敷地区

長久手城趾 石碑 徳川義宣(とくがわよしのぶ)
尾張徳川家第21代当主(2005没)徳川美術館館長

長久手城趾  加藤太郎右衛門忠景の石碑
長久手城を含む城屋敷地区(血の池公園も近くに)でも激しい合戦がなされた


当時の長久手城(東城と西城があった)の位置と広さを、今日の城屋敷地区の同じ場所に重ねたもの(内貴健太氏講演資料より)

長久手城趾の周囲の城屋敷地区は、古えを彷彿とさせるような石積の上に白漆喰の塀のお宅が多い


長久手城主・加藤忠景は、岩崎城主・丹羽氏次の姉婿です
さらに丹羽氏次の後妻は忠景の娘で、がっちりと強い姻戚関係で結ばれました

加藤忠景は1543年(天文11年)生まれ、丹羽氏次は1550年(天文19年〜1601年没)生まれなので加藤忠景が7〜8歳年上になります

丹羽氏次は父・丹羽氏勝の後を継いで織田信長に使え、信長の長男・織田信忠の家臣となっています
小牧・長久手の戦いの2年前の天正10年の甲州征伐(1582年)に、織田信忠軍団の一員として武田軍と交戦

また「本能寺の変」(1582年)で信長と共に仕えていた織田信忠が死去し、丹羽氏次は信長の次男・織田信雄に仕えることになり武功をあげていきます。ところが氏次は織田信雄と対立してしまい怒りを買い信雄の元を離れ、1583年(長久手合戦の前年)今度は家康の家臣になります


長久手合戦後、丹羽氏次は家康の取りなしで再び織田信雄に使え、伊勢国内に7,000石を与えられる
その後、豊臣秀吉の命で豊臣秀次に仕え、長男の丹羽氏資を家康に仕えさせています

関ヶ原の戦いでは、丹羽氏次は東軍に属しています。尾張と三河を結ぶ重要拠点となっていた岩崎城の守備固めをしつつ、関ヶ原の本戦にも参加しています。その功によって、現在の豊田市伊保に1万石を与えられ、初代藩主に

日進市を中心に勢力を拡大した岩崎城主・丹羽氏は、もともとは愛知県一宮の「丹羽郡」をルーツにしています
丹羽郡から日進に移ってきたのは丹羽氏初代の丹羽氏従(うじより)で、折戸城に居を構えました
それから少し北上し、日進マチテラス近くにある「本郷城」(現在は資材置き場になっているとのこと)に移ってきています

岩崎城に最初に入ったのが丹羽氏清(岩崎城初代城主)


丹羽氏清と氏勝はどちらかというと松平・今川に近い人物でした。氏勝は織田側、氏次は徳川寄りでした

丹羽一族は北は長久手から、南は東郷まで勢力をもった尾張東部の最有力な土豪でした

◉次回は、岩崎城での加藤忠景と岩崎城の戦いについて講演の後半を中心にレポートいたします

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com
コメント (4)
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