去る3月8日、長久手古戦場記念館・オープン前記念講演会「地図で見る長久手合戦」が開催されました(主催:長久手市観光交流協会)。本レポートはその記録となります
「国指定史跡」でもある長久手古戦場が今日あらためて注目されている理由は、現在、歴史学者のあいだで、「小牧・長久手の戦い」が、「関ヶ原の戦い」に並ぶもう一つの<天下分け目の戦い>であったことが認識されるようになってきたことが挙げられます
「桶狭間の戦い」の研究にみられるように、近年、歴史学の分野でも新たな視点や成果が生まれてきています
「小牧・長久手の戦い」が、もう一つの<天下分け目の戦い>と目される理由を、講演会の記録映像とともに見てみましょう
そして、<天下分け目の戦い>がなぜ長久手の地で勃発したのか、地理学者でもある山村亜希氏が独自の視点から切り込みます
講演会は予約で早くから満席に。当日来れなかった方もこの講演の記録(一部)を視聴して、
4月22日(水曜)OPENする長久手古戦場記念館にいざ来館しましょう!!


会場:イオン長久手 イオンシネマ9
観光交流協会会長・長久手市長 佐藤有美 挨拶

合戦は尾張の中枢部であった清洲がある濃尾平野一帯ではなく外縁部で行われた
尾張の台地や丘陵部が主戦場に
中世から近世への時代の転換点に勃発した二度の大規模戦争
現在、歴史学の中では、天下分け目の戦いは、
「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」と
二つあったと言われている
「小牧・長久手の戦い」は、
「関ヶ原の戦い」の前提となる大規模戦争だった

登壇者:山村亜希氏
京都大学,大学院卒業後、京都大学総合博物館助手、2003年より愛知県立大学日本文化学科にて教鞭・准教授に
2015年から京都大学大学院人間・環境学研究科 共生文明学専攻,准教授。
現在、京都大学,大学院人間・環境学研究科教授
「ブラタモリ」にも「名古屋・熱田」「東海道五十七次」の回など計4回案内役として出演

「小牧・長久手の戦いが、天下分け目の戦いである理由」
❶領地争いではなく、天下人となるための実権の掌握を目指した戦いである
❷全国の大名や武士は合戦に関わっていなくても、どちらかの陣営かに属することを強制された
❸「小牧・長久手の戦い」に連動した戦いが全国で長期に渡って局地戦が勃発していた=高度な情報戦
❹「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」共に、合戦後も国家秩序の樹立に向けた戦争が続行された。戦国期から江戸初期に至る期間の2つのピークにあたった大規模な戦いだった


「尾張名所図会 長久手古戦場」
画像引用元:Network2010(モノクロの尾張名所図会をデジタルでイメージ着色)
中央奥左に色金山と麓の安昌寺、右手中ほどの丘陵が仏が根の古戦場一帯・池田勝入塚が見える
あちこちに描かれた緑の丘陵を辿るように曲がりくねった街道が描かれている
秀吉軍と家康軍は、長久手の複雑な丘陵地形や交通路をいかに利用したか
長久手は関ヶ原と同様、東西南北へ至る交通の便が良かった
大きな軍隊を率いていくため行軍可能な交通路が必要だった

長久手古戦場公園(2023年撮影)
名古屋方面から東へ長久手を通過し瀬戸を結ぶ基幹道は江戸時代に整備されていくが、戦国期にも街道がしっかりあった。尾張北部から三河へ至る街道もあり、関ヶ原同様、東西南北へ至る街道が交わる場所だった
長久手合戦の主戦場の周りでは、関ヶ原と同様、生活を営む住民が往来が多い街道筋に多く暮らしていた
尾張東部丘陵は高低差も限られていたため街道が、丘陵を縫うようにして設けられていた
→丘陵が幾重にも続く地形であるため、軍隊が身を潜めながら進むことが可能だった(桶狭間と同様)
現在の長久手市の人口6万強よりも多い総勢10万程(秀吉軍 8万〜10万/家康・信雄連合軍1万5,000)が戦った壮絶な戦いだった
秀吉は本多忠勝軍によって竜泉寺で分断された

武蔵塚(森長可 最期の地)
戦国時代の戦さは、「局地戦」であり、城廓の争奪を目指した「城廓の争奪戦」だった(南北朝〜戦国)
長久手の戦いの主戦は、尾張と三河の境目地域での「野戦」だった

「長久手」の「くて」や「はざま」が付く地名は、香流川やその支流が削ってできた「低所」だったことを表す愛知県の地名方言。アピタ長久手店の近くに「東狭間(はざま)」という地名がありますね
「長久手」とは、「細長い谷」という意味をもちます。谷は川が「湿地」をつくるためそこを「くて」とも言われた
関東ではそれを「谷津」とか「谷地」「谷戸」と呼ばれてきた
愛知県では、低山や丘陵の「おね」や「おか」のことを「根」と呼んでいた(仏が根、丸根、中根など)
長久手という土地は、「くて」と「ね」が入り組んだ地形であった

長久手古戦場公園(長久手古戦場記念館前には仏が根の丘陵が続いています)
戦国時代の戦さは「局地戦」であり、「城廓の争奪戦」だった
「長久手合戦」では「城廓」でなく、「根」に布陣した
「桧ヶ根」「仏ヶ根」「高根」「富士ヶ根」
つまり敵よりも高い場所に布陣するのが常套手段
愛知県では、丘陵で他より高い所を「根」と呼んでいた
徳川四天王の榊原康政、「桧ヶ根」へ移動
井伊直政、「仏ヶ根」に布陣
徳川家康、色金山から「富士ヶ根」へ移動

色金山で軍議を開いていた徳川軍の主力が、「富士ヶ根」(現在の御旗山)に移動
井伊直政隊は「仏ヶ根」に布陣
家康本体は富士ヶ根から「仏ヶ根」へと移動し、徳川軍の総力部隊が「仏ヶ根」一帯へまとまり
岩崎城から戻ってきた池田恒興隊・森長可隊とかちあうことに

長久手古戦場公園 右手に池田勝入塚
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