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長久手古戦場記念館・オープン前記念講演会「地図で見る長久手合戦」❷/「小牧・長久手の戦い」がもう一つの<天下分け目の戦い>である理由[記録]登壇 山村亜希氏【Nagakute Times】

◉本レポートは記念講演会の後半部分になります

地図の赤い線は、小牧山・楽田から岩崎城方面、三河へと抜けていく古道
長久手の地は、尾張と三河の国境領域に位置していた
この古道は日常的に村人や旅人が利用していた道で、秀吉勢の進軍ルートに

秀吉方(堀秀政隊)が、「桧ヶ根」の「根」(丘)を奪取しますが、もう一つの「根」(丘)である「仏ヶ根」は徳川四天王の一人井伊直政隊に陣を張られる

長久手合戦の主戦場は、長久手城の麓に細い川と溜池があり、水田が谷に広がっている場所のすぐ裏手、「富士ヶ根」(御旗山)から連なるなだらかな南北に延びる尾根「仏ヶ根」で行われた
農民としてのふだんの生活が営まれていた場所の近くで行われた

長久手合戦から100年余たつと地元の百姓や住職の記憶と伝承だけとなり風化してしまう
合戦から約100年後の1600年代の末頃、尾張藩は長久手古戦場跡の調査を藩の学者たちに命じ調査をさせています

1706年、まず色金山や安昌寺、首塚(国指定史跡)にここが古戦場だった記念の木となる「標木」を立てていったとのこと
安昌寺には戦死者の慰霊を依頼

18世紀初頭、名古屋方面から瀬戸に向かう往来が多くなり、現在の古戦場公園一帯よりも、まず往来者の人目につきやすいところから「標木」をたてていったといいます

【国指定史跡】色金山歴史公園  左右に石碑、中央にある大きな岩(磐座)は家康が腰掛けて軍議を開いた床几石

【国指定史跡】長久手古戦場公園  秀吉方の池田勝入(恒興)の石碑

尾張藩勘定奉行の意人見弥右衛門桼と赤林孫七郎信之によって、古戦場公園と武蔵塚に残されている豊臣方3武将の石碑を立て永久に保護へ
(50年も経つと「標木」は腐るため。かつて尾張藩士の福留親茂がたてた標木があったが朽ち、遺跡がほぼ滅失していた 「長久手市郷土史研究会」資料
戦場となった地元のガイドをする百姓が現れる→地元ガイドの走り

一方、桧ヶ根の合戦は、家康方が負けた戦いであるため江戸時代においてもほとんど顕彰されることはなかった


「明和の碑」刻銘:森武蔵守長一戦死場 /「明治の碑」刻銘:森公遺蹟碑 明治31年、子孫によって建てられた

1838年から企画・執筆され出し、一般大衆にも販売された『尾張名所絵図絵 全13巻』(江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌。)にも「長久手古戦場」は紹介され、武士の身分以外にも広く知られるようになっていった→ 観光地化

同じく名古屋から日帰り圏内の「桶狭間古戦場」は、家康がまだ今川軍の一武将であって、しかも信長に敗れた戦さであったため尾張藩からの顕彰はあまりなされなかったといいます(明和8年に尾張藩勘定奉行による今川義元戦死の場所に石碑建立はなされた)

手前に古戦場公園、後方にかつて家康が布陣した御旗山

長久手古戦場公園 激戦があった「ね(尾根)」の様子 
かつては松林が多かったと言われていますが、現在の植生は、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、クスノキ、クヌギ、ハナノキなどに変わっています

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com

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