北海道の八雲町をご存知でしょうか! 函館と室蘭の中間にある広大な町です。どれくらい広いかというと長久手市の45倍程の面積(956km²)もあり、全国でも35番目に広い自治体です
その八雲の歴史は、じつは長久手と深い関係にあります。長久手の初代村長は吉田知行(ともつら)氏ですが、吉田知行は村長になる前、側近として仕えていた徳川慶勝(旧尾張藩藩主)から、明治維新後の明治10年、路頭に迷っていた尾張藩の旧藩士を救済するため北海道開拓と移住をすすめて欲しいと白羽の矢を立てたのでした
吉田知行は旧徳川藩の開拓団とリーダーとして、まだ原生林が生い茂るだけの札幌以南の渡島半島を3ヶ月に渡って踏査、その結果、八雲の地を旧尾張徳川家で開拓するべきと徳川慶勝に進言しています。また自身も移住を決断しています
その後、吉田知行は一旦帰郷し関係者の要請で初代長久手村長になりますが、病に罹ってからは再び八雲に戻り自ら開拓した八雲の地で逝去しています
北海道の八雲町とはどんなところかレポートで一緒に訪ねてみましょう!

まさに北海道、雄大な海岸線と青い太平洋が望めます


八雲町地図:八雲町ホームページより
八雲町:人口約14,000人
町の西部地区の大半は森林で、海抜1,000⑬を超える山々がある
遊楽部山(ユーラップサン)が1,277mで八雲で最も高い(1,377mの伊吹山とちょうど100m違いの高山である)
八雲町は、日本で唯一、「太平洋」と「日本海」に面した自治体
朝に太平洋からの日の出を拝み、
夕刻には大西洋への日の入りを望めてしまう

画像:太平洋側(噴火湾)の朝焼け 海の向こうに雄大な北海道駒ヶ岳(1131m. 函館は山の向こう側に位置します)
Webサイト「アイヌモシリと二つの海」(太平洋側〜日本海側 横断ルート)より引用
上記サイトのモデルルートのタイムスケジュールでは、太平洋側の部落魚港をスタートし噴火湾パノラマパークなどを訪れ八雲の街並みと太平洋を望んだ後、八雲墓地でアイヌが被害にあった事件を学び、開拓移住上陸の第一歩の地碑を訪れます
さらに八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館を訪問、その後日本海側の熊石海岸で日本海へ沈む夕日を堪能

画像:「アイヌモシリと二つの海」(太平洋側〜日本海側 横断ルート)より引用

こちらは八雲町の西側に広がる大西洋
同じ町の中の移動で、朝に太平洋を拝んで、移動して夕刻に大西洋への日の入りを望むことさえできてしまうとんでもない町です
北海道開拓を決意した尾張徳川家当主の徳川慶勝は、後に長久手初代村長になる側近の吉田知行を北海道に派遣
北海道開拓を決意した尾張徳川家当主徳川慶勝は吉田知行を北海道に派遣します。吉田知行らは道南の遊楽部川流域に広大な原生林を見つけ適地として復命。慶勝は即座に遊楽部への移住計画を決定しました。北国の暮らしも、農業も経験したことのない旧藩士に慶勝は何を求めたでしょうか?
1878年頃から旧尾張藩士族が集団移住で開拓
徳川幕府が終わりを迎えた激動の明治維新後、
生活に困った尾張藩士たちを北海道に移住させるため、寒さや雪、過酷な自然と闘いながら、現在の八雲町を開拓しました。
長湫・岩作・上郷の3村のいざこざから要請された初代村長

初代・長久手村長の吉田知行(ともつら)
明治39年(1906年)、県知事から町村合併のための訓令で、長湫村、岩作村、上郷村を合併させ、否が応でも合併し村長を決めなくてはならない状況に。初代村長を誰にするか大きな議論に
さまざまな軋轢で初代村長が決まらななか白羽の矢がたったのが、長湫村、岩作村、上郷村のどこの村長でもなかった吉田知行(ともつら)でした
吉田知行は尾張藩主・徳川慶勝の側近中の側近で、維新後も北海道の八雲村の開拓を軌道に乗せた実績があり、関係者を通じて合併後の村長代理への就任を要請されました
吉田知行の父・吉田知紀の旧宅があった「中島の一番地」(長久手小学校から西に50m)に役場が設置されています
村長代理としての村の政経は困難続きで(長湫と岩作の対立など)、吉田知行もトラブルに巻き込まれます
結局、明治39年第二回村会議で吉田知行は正式に「初代村長」に選出されました
吉田知行の父・吉田知紀は、長久手に禄高400石の領(岩作に156石)を持ち、1873年に死去。
画像:「北海道の歴史、開拓の人の物語:北海道開拓倶楽部」より引用


『長久手誕生100年』小林元 監修/編集・発行 長久手町 平成18年発行 / 右は初代町長・吉田知行誕生の経緯についての記述
北海道・八雲に、平和な理想郷建設を願った徳川慶勝
八雲町の町名の由来
徳川慶勝が、須佐之男命(すさのおのみこと)が詠んだという「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という古歌を元につけたもの

尾張藩藩主 徳川慶勝(1824〜1883)
尾張徳川家(尾張藩)第14代・第17代当主。明治維新後に議定、名古屋藩知事
明治維新から士族の多くは経済的困窮に陥り、旧藩士救済のために旧藩主・ 徳川慶勝が持金5万円で第十一国立銀行に加入、その利子費用を元手に北海道開拓を決意した
徳川慶勝は、王政復古とともに新政府の重職に就き、徳川か新政府かどちらに与するか決めかねていた多くの諸国大名に新政府率いる朝廷軍との不戦を説き伏せています
画像:写真は北海道開拓が始まった明治12年の時のもの「北海道の歴史、開拓の人の物語:北海道開拓倶楽部」より引用