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祭礼警固祭り「岩作のオマント」❶/江戸時代からつづく100挺もの鉄砲隊の発砲の壮観!【Nagakute Times】

8時30分に西切馬宿を出発(岩作西集会所)後、岩作西部エリアを巡って各所で発砲、11時頃に岩作寺山へ

後方の山は長久手合戦の重要な局面で徳川家康が「金扇の馬印」を掲げた御旗山(当時は富士ヶ根)
富士浅間神社が江戸時代に創建され社殿、石票がたつ。境内は国指定史跡

香流川沿い(岩作寺山)での火縄銃発砲 

本笠、祭事〜火縄銃発砲後、杖付き、馬囲い、綱付き、神馬、棒隊がつづきます
鉄砲隊を含めるとざっと300〜400mにわたり約130人ほどで神馬を警固します(東西の隊列を合わせると270人程)
神馬の背には檜(ヒノキ)の皮を薄く剥いだもので馬飾りされた岩作オマントならではの標具(ダシ)に注目

8時50分に東切馬宿(中根原集会所)を出発後、岩作各所を練り歩き、色金山西エリアの道中、鉄砲隊が発砲

長湫地区と共に100人以上と近隣他地域よりも際立って多い鉄砲隊

江戸時代後期の文政13年(1830年)の岩作の警固祭りで120人の鉄砲隊の参加があったことが記録(もう少し少なかったのではという推測もあり)されているとのことで、もしその記録が本当であれば当時の村の人口から推測しても鉄砲隊だけでも相当な人数が参加していたことになる
いずれにしろ江戸時代=明治〜昭和初期に至るまで他地域と比べかなりの大人数で構成されていたようである
警固祭りにおける鉄砲隊について〜岩作のオマント」参考資料

東切り警固隊列と西切りが警固隊列が東西合流する市役所北の駐車場(左方)と石作神社前の田圃

長久手市国際交流協会(Nagakute International Association)の活動で長久手に滞在し交流活動をしている皆さんとサポートメンバーの方々
皆さんかなりエキサイトしていたようでした

東切り警固隊列と西切りが警固隊列が東西合流

羽織りを着て祭礼を取り仕切る代表祭事や杖付き、青年団代表らが相対して挨拶と祭礼の伝達の儀式
緊張感が迸る一連の儀式の様は、江戸時代の祭礼の様子そのもののようである

東西隊列の火縄銃発砲、献馬の疾走など一連の祭礼儀式が終了するといよいよ石作神社へと向かいます

東西警固隊列の合流後、石作神社への道中での鉄砲隊発砲

氏神である石作神社へ



この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com

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