長久手古戦場記念館が4月にオープンし、日本の歴史が動いた<合戦の地>として、また歴史の認識を深め新たにする<観光の地>として、県内県外から多くの方が訪れています
織田・徳川連合軍が秀吉軍に勝利した「長久手」の地は、遥か遡る江戸の元禄時代(1688年から1704年)、江戸の文化が爛熟しはじめた頃より、尾張藩主や武士、文人墨客たちの格好の「観光地」になっていったようです
多くの”来客”たちを合戦地や史跡に案内したのは、長久手の林仁左衛門という人物で、「長久手古戦場案内記」「長久手古戦場之図」など多くのガイドマップ(絵図)や資料、また遺品などを収集していました
2026年以降、古戦場記念館を中心に、新たな「必勝」を祈願する新たな「聖地巡礼」が始まろうとしています
「温故知新」の気持ちで、市内各所の史跡などを巡る「聖地巡礼」をして見てはいかがでしょう

長久手古戦場記念館 「長久手合戦図屏風」2026年4月

江戸時代から長久手古戦場見物は武士を中心に盛んだったと伝えられています(『長久手町史 本文編 p432)
古戦場見物が盛んになったのは、第5代将軍・徳川綱吉の治世下で経済が発展し町人文化(文学・芸能・美術な)が爛熟し始めた元禄時代(1688〜1704年)からだったとのこと
この頃には、武家政権がすっかり安定、武士同士の戦さはまったく無くなり戦国時代は遥か遠くとなっていた時代でした





整備される以前の庄九郎塚(国指定史跡)
長久手古戦場史跡の「観光案内」役を務めるなど
地元の名主だった「林仁左衛門家」
林仁左衛門は、「賤ヶ岳七本槍」の筆頭だった福島正則とも縁続きとしても知られていたとのこと
長久手合戦後、林仁左衛門は合戦場に落ちていた多くの刀などの戦闘物を拾い集めたため、後の江戸時代に合戦場を訪れた尾張藩士や文人墨客が仁左衛門家に立ち寄った際に、合戦の遺品を見学することができたと伝えられています
また林仁左衛門は実際に合戦がおこなわれた場所についても知悉していました
「林仁左衛門家」は、アピタ長久手店の少し北側の現戸田谷に在りました(戸田谷43番地 1980年代頃まで林家の子孫が住んでいたとのこと
(長久手郷土史研究会サイトより)

林仁左衛門家所有の「尾州長久手合戦之図」
(岩崎城歴史記念館で開催「戦国武将 丹羽氏次」特別展 2025年12月〜2026年1月 での展示資料の一つ。「長久手タイムズ」で取材、掲載した当時の画像を引用)
江戸時代より林仁左衛門家を訪れた尾張藩士や文人墨客たちが見学したであろう資料
(現在も林仁左衛門の子孫に代々受け継がれています)
・「長久手御陣場図」「長久手古戦場案内記」「長久手古戦場之図」「長湫軍記」
「池田勝入陣鉦」「砲弾・弾丸」「尾州愛知郡長久手邑絵図」他
江戸時代の「聖地巡礼」ツアーガイドマップ(絵図)
「尾州愛知郡長久手之邑」絵図
長久手古戦場記念館にて展示中(〜6月 or 7月まで)




小牧・長久手の戦勝を感謝し、家康、織田信雄、徳川義直(家康9男 尾張徳川家初代藩主)、松平忠吉(家康4男)によって刀が奉納された
尾張藩の武士、文人墨客たちも当時の古戦場巡りのルートとして訪れていた


色金山は幕末につくられた「尾張名所図会」では「色嶺」と表記されています
奥に家康が座って軍議を開いたとされる床机石が見えます
その傍には江戸初期の寛永3年(1626)に設られた石標
宝永三年(1704)、尾張藩士の福富親茂が建てた碑(刻銘:御牀机石)も傍らに建っています
色金山は古き時代から巨石が採れ、床机石は磐座(いわくら:古神道における信仰の対象)として建てられていたようです
古えからの信仰の対象だったであろう聖なる磐座と、その磐座に座し”必勝”をはかった軍議を催した家康
”必勝祈願”の場として今後さらに注目される場所になる予感がします





安昌寺の雲山和尚は、長久手の戦いで亡くなった秀吉方・織田徳川方約三千もの戦死者の亡骸を敵味方の別なく埋葬し塚を築き供養したことで知られていた
右の写真は、安昌寺に安置されている織田信雄が当時乗っていたとされる御籠
(和尚さんにお訊きし御籠を実際に見ることができます)

色金山麓にある安昌寺