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「耳塚」はなぜ長久手小学校の北側にあるのか?/ 「尾張名所図会」に描かれた岩作の「百八塚」の正体とは?【Nagakute Times】

長久手市消防署の南東の隣接地に4坪(約12㎡)ほどの草塚があり、「耳塚」と呼ばれています
「耳塚」と刻まれたどことなく耳のかたちをした石碑が建っています

「耳塚」のある場所(字 中縄手)は、長久手消防署(左側に写っている肌色の建物)の南東側の草地
この写真の左手には喫茶「ランプ亭」があり、そこの駐車場の奥からすぐです

かつては耳塚には鳥居が建っていました
昭和初期、中期頃まではあったようです
写真引用転載元『長久手町史実資料編 四』p384

「耳塚」の建立年は定かではないようです。当時合戦の慣わしとして敵方の片耳をそぎ取ってその数を後日勲功の証としていたそうです
そぎ取られた討死者の耳を埋めて供養した塚であろうと推測されています
古来より、耳塚に祈願すれば耳の病は平癒するという伝承があります
この場所もまた仏が根の合戦後、後退した池田隊の屍が数多くあった場所とされ「草塚」もつくられていた場所の一つ

「草塚」は小塚は4、5坪で、大塚は60坪もあったと記録されています。塚の高さは1~2メートルあったとのこと

「百八塚」として知られていた多くの草塚は、昭和時代の半ばまで以下の場所にまだあったと記録されています
字宮前、字城之内、字白針、字早稲田、字塚本、字石田、字長池、字寺山、字中縄手、字元門、字久手田、字平池、字八瀬ノ木。昭和49年(1974)年、土地整理事業によって姿を消しています
武具や遺骨、古銭などが出土した草塚もあった(直江神社東の塚、字長池、字元門、字塚本、町役場裏手の塚
(その時の出土品は祟りを畏れて土中深くに埋め工事は中断されたとのこと(『長久手町史実資料編 四』)

その一方、1,000人余りの敗残兵は色金山の東方にある大草城(長久手合戦の5年前に信長の命で森長可が廃城だった大草城を修築していた)へ、また西方の名古屋方面の本郷、上社周辺に逃げ去った敗残兵もいてそれぞれ落武者として居着いたと伝わっています

長久手合戦の激戦「仏が根の戦い」で、大将の池田恒興・元助と森長可が討ち取られてしまった後も、池田隊・森隊は徳川軍に押し込まれるようにして、香流川を越え、現在の長久手小学校の裏手(北側)付近の中島・溝添・中縄手へと敗走したと言われています

「耳塚」のある場所は、長久手市庁舎と長久手小学校のあいだにある空き地です
岩作銀座商店街の旧銀座通りに面した「首塚」と異なり、通りから奥まった場所にあるため場所も分かりにくく訪れる人は限られてますが、これを機会に訪れてみると、激戦のあった仏が根のその後のこと、仏が根からの距離感などが直に感じ取れるかもしれません

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com

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