長久手には鎌倉時代から戦国時代にかけ築かれた「城館」が5カ所ありました。今回の城趾である長久手城と岩作城と大草城(これが一般的に言われる長久手の3つの城跡)、それに石田橋近くにあった岩作西城と前熊にあった福岡太郎右衛門跡を加えた数です。
とりわけ長久手城趾は今日に至るも「城屋敷」という地名が残り、江戸時代の面影を幾らか感じさせてくれます。長久手城は長久手合戦の主戦場の近くにあり焼失し廃城に。江戸時代に幾らか残っていた城趾も崩れ去りましたが、「地名」となって当時の面影が残されています。

長久手城趾の周囲の地名は現在も「城屋敷」です。

長久手城はかつて瀬戸の土豪だった加藤太郎右衛門忠景が、長久手合戦の約30年前に長久手に来住。かつての斎藤氏の城跡を土塁や塀に手を入れて城館としています。現在、遺構はなく観音堂とその脇に城址碑が建っています。江戸後期の文化六年(1809)に加藤忠景の末裔の尾張藩士が建てた石標があります。
城館は堀を挟み、大きな池(後の血の池)を巡らした東の廓と西の廓が立ち並ぶ構造だったといいます。
長久手合戦時には、徳川方の丹羽氏について奮戦。岩崎城は池田恒興ら秀吉軍によって落城、加藤忠景も戦死しています。長久手合戦時、城の付近は合戦場となり徳川方と秀吉方の軍勢が激突して死闘を繰り広げた場所で、その折に城は焼失、後に廃されたと伝えられています。
江戸時代には全体の城跡もかなり崩れてしまっていたといいます。

合戦の死者を弔いう地蔵が建っています。

「城屋敷」には瓦屋根のある白い漆喰塀と石組で囲んだお屋敷のような家屋が幾つも建っていてこの一帯特有の風情、歴史につながった「景観」を生み出しています。


戦国期にあった長久手の城は「中世城館」で、鎌倉時代から戦国時代にかけて築かれたもの。
天守閣がある近世の城郭の様ではなく、堀や土塁などを張り巡らせた防御のための「城郭」と、城主一族の「居館」の機能を併せもった館だったといいます。

観音堂

尾張徳川家第21代当主の故徳川義宣(よしのぶ)(1933-2005)氏による建立。





「城屋敷」界隈


「城屋敷」界隈

この一帯は御旗山(富士社)に向いてどの道も勾配があります。長久手城はその途中の崖の上にあったようです。
血の池公園周辺は樹木も多く静かな住宅地になっています。


「城屋敷」界隈


長久手城趾
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