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長久手古戦場記念館・オープン前記念講演会「地図で見る長久手合戦」/「小牧・長久手の戦い」がもう一つの<天下分け目の戦い>である理由[記録❶]登壇 山村亜希氏【Nagakute Times】

会場:イオン長久手 イオンシネマ9

観光交流協会会長・長久手市長 佐藤有美 挨拶

合戦は尾張の中枢部であった清洲がある濃尾平野一帯ではなく外縁部で行われた
尾張の台地や丘陵部が主戦場に


登壇者:山村亜希氏

京都大学,大学院卒業後、京都大学総合博物館助手、2003年より愛知県立大学日本文化学科にて教鞭・准教授に
2015年から京都大学大学院人間・環境学研究科 共生文明学専攻,准教授。
現在、京都大学,大学院人間・環境学研究科教授

「ブラタモリ」にも「名古屋・熱田」「東海道五十七次」の回など計4回案内役として出演



「尾張名所図会 長久手古戦場」
画像引用元:Network2010(モノクロの尾張名所図会をデジタルでイメージ着色)
中央奥左に色金山と麓の安昌寺、右手中ほどの丘陵が仏が根の古戦場一帯・池田勝入塚が見える
あちこちに描かれた緑の丘陵を辿るように曲がりくねった街道が描かれている

長久手古戦場公園(2023年撮影)

名古屋方面から東へ長久手を通過し瀬戸を結ぶ基幹道は江戸時代に整備されていくが、戦国期にも街道がしっかりあった。尾張北部から三河へ至る街道もあり、関ヶ原同様、東西南北へ至る街道が交わる場所だった
長久手合戦の主戦場の周りでは、関ヶ原と同様、生活を営む住民が往来が多い街道筋に多く暮らしていた

尾張東部丘陵は高低差も限られていたため街道が、丘陵を縫うようにして設けられていた
丘陵が幾重にも続く地形であるため、軍隊が身を潜めながら進むことが可能だった(桶狭間と同様)

武蔵塚(森長可 最期の地)


「長久手」の「くて」や「はざま」が付く地名は、香流川やその支流が削ってできた「低所」だったことを表す愛知県の地名方言。アピタ長久手店の近くに「東狭間(はざま)」という地名がありますね
「長久手」とは、「細長い谷」という意味をもちます。谷は川が「湿地」をつくるためそこを「くて」とも言割れた。関東ではそれを「谷津」とか「谷地」「谷戸」と呼ばれてきた
愛知県では、低山や丘陵の「おね」や「おか」のことを「根」と呼んでいた(仏が根、丸根、中根など)

長久手古戦場公園(長久手古戦場記念館前には仏が根の丘陵が続いています)

色金山で軍議を開いていた徳川軍の主力が、「富士ヶ根」(現在の御旗山)に移動
井伊直政隊は「仏ヶ根」に布陣
家康本体は富士ヶ根から「仏ヶ根」へと移動し、徳川軍の総力部隊が「仏ヶ根」一帯へまとまり
岩崎城から戻ってきた池田恒興隊・森長可隊とかちあうことに

長久手古戦場公園 右手に池田勝入塚

この記事を書いた人
1960年 長久手生まれ。上郷保育園、長久手小学校、長久手中学校へ。菊里高校、青山学院大学英米文学科卒。英字新聞部「青山トロージャン」所属。編集プロダクションのMatsuoka & Associatesにて学び、編集工学研究所入所。 1990年、洋書写真集・美術書をリースするArt Bird Books設立、1992年中目黒駅前に店舗を構える。2009年から代官山蔦屋書店にて主に写真集のブックコンシェルジェとして勤務。2020年、Uターンで地元長久手に戻る。 『Canon Photo Circle』誌の写真集コラムを1年間連載後、「長久手タイムズ」を始動。 mail address:nagakutetimes@gmail.com

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